巻之61   〔24〕 先さまの念いにふれて泪する

 古るきことを思い出すままに冊中に書いておきたい。
 我がまだ若年であったころ祖君誠嶽侯の嗣子となった。
その冬叙爵(叙位されること)すべきになったとき、祖母君(久昌夫人)がある日、清(静山公)を近づけ、宣(のべ)られたことには
「私は患(うれい)ております。汝はこの冬叙爵すれば、旧に依って壱州に任じられるでしょう。伯父本覚君は壱岐殿として26にて卒され、父公政功君もついで任じられ、37歳にて卒された。汝を合わせて3人です。だから他に任ずべきでしょうが、家の先の例に違わないのではと。ただただこれのみ憂いがあるのです」
と染々(しみじみ)と宣べられた。

 この時わしは未だ若年で、深慮もなく、祖母の御患を休めようという計りで、申し上げた。
「人は生き死にこそ計り難いものですが、壱岐守がどうして忌むことなのでしょう」と慰め申し上げると、祖母君は御涙を浮かべ、「善かった」と申された。
我が念いは晴れた瞬間だった。
これぞ生涯の大慶と仰せられたが、顧みれば、それより幾春を秋を歴て、今既に耳順(じじゅん、数え年60歳)を踰(こ)えた。
思えばこのような世に長らえたのは、誠に祖母夫人への孝であって、先の言葉ではない。
尚更夫人の忝(かたじけ)なきことに念いが増していく。

『帰敬録』と云う増上寺の蔵書に、大樹寺の登誉上人が神君(家康公)に申し上げた言葉に、「御祖父清康公は25歳にて卒し、御父広忠公も24歳にて逝去された。
すると君は短命の統類ならば、明後日討ち死にと決定し、最前申す如く急度意地を御窮(きわ)め、阿弥陀如来の御本願に任せ、称名念仏の利剣を以て、悪人を退治せんと思し召し、うんぬん」と見える。

  清は按(おさえ、調べるの意)るに、広忠公の卒去のとき神祖8歳にて坐(ましま)し、この登誉上人がこのように申したことは元禄3年(1690)なので、御年19になられていたと。
つまり御終年を考えれば、父祖公に踰得られ、古稀の御齢に余りになった。
されば尊卑(身分の高い者と低い者)こそあれ。
これ等も同じ御ことにぞ。
○林蕉亭曰く。
この前条を読み過ごして懐旧に堪えず。
数点の泪をそえていた。
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