2022/06/02
巻之16 〔3〕 放達の者たち
蕉軒が云う。詩人の放達(気ままで物事にこだわらないこと)は留まるところがない。
3尺の童子も知る李太白、杜子美は詩人の勘弁ならずや。
その詩句にて云うのは、「李が狂歌孔丘笑う、杜が儒術我に于(ここに)何か有り哉、孔丘盗跖(中国の古文献に登場する春秋時代魯の盗賊団の親分)倶(とも)に塵埃」と云うように、名教の罪人と謂うべし。
近時、勢州の和学者本居宣長は、強いて我が国のことを主張しようと、孔子に名云うも、ますます知らないことの甚だしさである。
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