巻之67 〈6〉 犬追い物の射法

文政の初め頃、身内の井戸小文治が、犬追い物の射法を学ぼうと肥後熊本に行った。
関根俊蔵に就いて習った〈侍組五十人を両人して預かる頭だと。高ニ百石〉。
この人に肥後の五家(ごか)のことを聞いたと云うので、わしはこれを問うた。
この地は熊本から東南の方に当たり、八代から踏ん込み行く。
道程は六七日路を経るべく思うに、日向の堺辺りにあるようだ。
殊に深山の中にあり、かつ道ははなはだ険しく難であると。
この村は山中に一村のみあって、古は僅かに五家あったので、因んでその名を呼んでいる。
今は人が増えて百軒もあるだろうか。
その初めは平氏が西敗のとき、かの党が隠れ棲んだ末だと云う。
また米良と云う一堺があると聞いた。
これは別の地になるとのこと。
この五家の人はみな一類であり、その内頭分の者ニ三家がある。
今は熊本侯に付属して、この中から年首の拝礼として一年一度城下に出るという〈米良は『武鑑』に、米良主膳無高、肥後米良相良近江守は一所と記す。
すると人吉侯に属するか〉。
総じて鳥獣を射て生業とする。俊蔵はかの所に至り、その射方を見ると、丸木弓で今の制作法とは異なる。
その制作は深山の事なので、立っている檀(マユミ)の木を伐って、三年ほど乾かして枯らして、これを用いるとのこと。
弓の尺はその人の指尺(タカバカリ)で、七尺五寸に制作した〈この指尺で七尺五寸にすることは射法の古い制作であるので、今は知る人は稀である。
徒らに弓の匠に任せて作った物を用いる。
だから古法に非ず。だから、五家の弓は全く旧の時の物がある〉。

その制作法は今の弓は外竹の方を檀(まゆみ)の皮の方にして、内竹の方を肉にしてこれを削る。
一握りは大抵一本を二つ割にして、弓二張を得ようとはかるようにと。
またその木の皮の方はかつて磨きをなさず、皮のままにして、節が粗いのを良しとする。
みがけばひき折る等あるので、つとめて皮性のままにするとのこと。
また弓の削りは円るから、工作ははなはだ拙い。
本ゆわずを右乳に当て、左手を推し、指頭の当たる所を握る。
少し古い弓よりは高いか。別に握革を用いない。
また古い制作法はない。
また弦の制作は問わなかった。
矢もいつもの制作と違うのか、制作を聞かなかった。
ただし、矢じりは竹皮で作るのかと。射本は定まる規もないか。
おおよそは的を己の後ろに視て捻じ曲げながら射る。
右手は肩に寄せず、頬ならびに顎を出して放つ。
だが、的に当るのは違わず、一切志す者はみな同じであると。
終日射るにはニ三帳を以て猟用にする。
もし明日一帳を以て射終えようとする時は、前夜より弓を流水に浸して置いて用いる。
すると弦はたゆまず、弓の力を落とさないと。古法か。
また、俊蔵が見た者は五六人になる中、強弓を引く者があったが、俊蔵がその弓を引くには弦口があかない。
その人は矢車も長くして、当たりも人をこえたが、他の者は羨んでいたと。
また的と称する物は四五寸ほどの状態の者なので見たところ十間余りにして射るという。
この五家の人は、言語は薩州の人に似て、詞の中多く何に申すとと云っている。
食物は米はあまりなく、俊蔵がいる時は小豆ばかりを食わせて、大いに困飢していると。
この余りの栗をも食用としている。
また、この五家米良の他に、那須と云う人境もあるとのこと。
何れも平氏の残党であると。
わしは敢て聞いた。
かの五家、以前は深山の中にいたから、世間の人はかつて知らなかった。
だから、ある時渓流から器物が、流れて来るのを見る人があった。
そう、これを認めて遂に奥に入り、この人居を探し得たと。
果たしてどうなのか。
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