2020/08/26
巻之六十五 〈五〉 領内の村 あぼと云う地
領内の村、平戸城の西北一里余り、神崎と云う山の北に海に面していて、人里離れた所に、あぼと云う地がある。ここにどうこくと云う処がある。
思うに人名で、今その廃宅の跡がある。
宅の辺りは石垣が残っている。
その谷あいに小竹がうっそうと茂り、人が窺える隙間はない。
近頃聞いた。
この地は、氏家内膳正、関ヶ原の戦に利がなかったので、後西国に下り、この処に潜居し、名を変え棲んでいた。
また大坂の陣が起きた時は、この地を去って跡なし。
定めて大阪に趣き与(くみ)せたものであろう。
この後、廃宅のとなってしまったか。
考えると、『武事紀戦略考』に、九月十五日の晩、長束太蔵大輔正家、関ヶ原に落ちて、大島に在ったのを聞いた。
道阿弥手勢三百計りで大島に押し寄せ、多いに戦った。
長束敗軍して逐電する〈大島は長嶋よりニ十余町南北〉。
十六日蓮、山岡また、桑名に押し寄せる。
氏家内膳正行広、和をこいて城をわたし〈桑名は長嶋よりニ十四五町南〉。
それより山岡また神戸城に赴く。
同書にあるが。
氏家常陸介入道卜全〈濃州大垣城主〉、美濃斎藤家三人衆の一人である。
後に信長公に従って、度々の戦功があった。
『武功雑記』にある。
元亀三年、信玄は遠江へ出張の条に信長公より権現様へ加勢として、一番手平手中書、ニ番佐久間由衣上門尉、三番大垣の氏家常陸入道卜全。
卜全は行広の父である。
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