続篇  巻之21 〔12〕 太平の世に、嘆かわしきこと、甚だしき

 〔戊子(つちのえね)、文政11年、1828か〕11月下旬、左右(に侍る)人が云った。
坊間を高呼して売りあるく者があって、小図を携えていた。
それを求めると越後国地道(地震)のことが描いてある。
わしはすなわち取って見れば左(写真)の如し。
なるほどその後も都下往々この風説があった。
わしの居所もその頃小さな地震があった。
思えばこの日であったと思う。

 また松前氏の老臣蠣(かき)崎某の義子伊三郎なるものを、わしは久しく知っている。
近頃来て話をした。
松前の商船が、鮭鱈を多く積んで大船5艘、その頃越後の海にかかろうとしたころ、みな行き方を知らないとのこと。
するとかの地の海中も波濤が大きく起こったので、浮船もこの為に漂い揺れながら、遂に破裂したか。
そもそも地面が揺れたら、潮水もまた激怒するものだろうか。

 またわしの内に、この地の東本願寺所縁の者があった。
この本願寺の取り沙汰は、越後の便りがなかった。
するとかの地は東本願寺が震れ壊れるとき、寺内の僧俗悉く圧死して、申し送る者がないためである。
却って同州他人のもとよりは、地道の変を云い越した者もあったと。

 またわしの方に久しく出入りする匠に、貞七と云う者があった。
生国越後の者なので、便りはないかと聞くと、「某の在所は柏崎と云う所です〔この地は桑名侯の領所〕。
かの東本願寺は同国高田でして、相距(へだて)ること20余里。
その為か、この頃便りが来て、およそ11月12日、朝5ッ頃(午前8時)より、地が震れだしました。
町方は他に比べれば強いと云うこともありませんでした。
家居がゆり倒れることもなく、所々土蔵の壁が落ちた位でした。
けれども井戸など、所によって、底よりねばねばした土や砂を吹きあげて埋もれたと。
村方などは所々飲み水に困っていると。

 また鍋釜を商売する家があって、この地動のとき、棚より上げて置いた物がゆれ墜ちて、人も器も多くが壊れたというのですね。

 またかの本願寺は、本堂12間四方、庫裡(うら)30間余り、幅10何間、悉く震り倒れて、その下より火が出て、堂舎が焼失したそうです。
それで京より輪番の僧侶はみな焼死したというのです。惨いことです。

 またこの本願寺の辺り、或は新潟の辺りは、分けて震り動き、500人余りが死亡しました。
潰れた家は未だその数がわからないそうです」と云った。

 林子曰く。
「今年はいかなる凶年ぞ。参、遠、駿、甲、信、及び関東の各処、洪水の殃(わざわい)があった。
その後九州の風濤の変は古今未曾有の事の由。
長崎在留の蘭人どもは、世界を船行するが、このような大風も、西洋でも嘗て聞いた事がないと云う。
人民の死傷は万を超すとのこと。また北越の地震も、めずらしいばかりの由。
これもまた人を怪我すること千を以て数える」。

 太平の世にこのような人命を空しく損壊すること、嘆くべき、甚だしきことである。

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