巻之65 [3] 太平榎のはなし

冠山老侯が江都名勝の題で詩を求めるていると、諸方に募った。
わしには太平榎と云うのを頒かつ。
わしはその樹の所在と由来を知らない。
だから人を通してそれを問わせた。

返り来て曰く。
「この榎は、以前亀井戸の社内脇にあったと聞いて尋ねると、昔は網千榎、神明榎、太平榎とも云ったそうです。
その辺の習書師に問いますと、これは梅屋鋪の某が知っているだろうと答えるので、梅荘に往って尋ねたら、某は答えました。
その樹は正しくこの境内に在ったが、今はありません。
けれどその枯木は残っていて、殆ど20年に及ぶかな。
太平榎と称する訳は、嘗て天下太平四字の形自ら隆起しているからですね。
それで20年前大風雨があったとき、その根が抜けて倒れました。
今では形すら残ってませんよ。
今その在った跡を探すには、梅千漬を納める屋の隅柱の下、それがその跡ですよ。
往古はこの辺に巨大な榎が数本ありましたが、この所の樹かの四字が現れて、水戸光圀卿が見出され、遂に上の方の御耳に入り、嘉瑞なり!と、ある日御成あって上覧に入られたのです。
この話は梅荘の婦人[この婦人はその家の女にして、幼年よりここに住まうと云う]の所伝だと。
婦人が10歳ばかりの頃は枯れた体にあって、上方に字形も少し顕われていて、手を以て示すを考えると、残りの木の高さも1間に余ると思われ、文字は四竪にして下方のみ遺ったそうです。
字の方は1尺に余るとのこと」。

ならば榎の巨大な思いに馳せてみたい。
この婦人はその頃30余と思われるから、かの樹の跡は絶たれただろう。
また『江戸砂子補』には、亀井戸天満宮の条に附して云うが。
大榎があった。
天下太平の文字に虫喰があった。
太平榎というべきかと見える。
これも場所も説もはっきりしないのだが。

またそれからしばらくして、亀戸の町に刻版した『葛飾名所案内』と題したものにそのことが出されなかった。
図を案ずるに、亀井戸天満宮の北角を梅荘として、東を榎木神明と記していた。

ここを以て、別に神明榎の名はあったかや。
されども図によると、神明の境と梅荘は別の所である。
但し境に接することで、嘗てそのように呼ばれたか。

若しくはまた梅荘は、その頃は神明宮の社地に属していたのだろうか。
姑く梅荘の伝わる話に従ってみようと思う。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1328位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
181位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR