2022/12/10
巻之61 〔10〕 朝鮮攻め後、仙台に伝わるはなし
正月20日隣家で、仙台の家士隠居、俳名を曰人(えつじん)と云う人にあった〔俗称は遠藤伊豆之介、600石を領する。今法躰である。年66と云う〕。この人は頗る学才があって、武心もある矍鑠(かくしゃく)たる翁である。
彼等と話す中、かの藩侯の祖政宗が朝鮮攻のとき渡海したが、彼と対陣のとき、諸手より物見を出したが、6騎以上みな、明兵の鳥銃に打たれて還らなかった。
因ってかの陣を察することは出来ない。
已に敗陣に及ぼうとしていたが夜、暴雨で四方が明らかならず、双方物分れになった、と。
これは何れの時の軍になるだろう。
このことのみ聞いた〔以上、仙台の伝説の旨〕。
また釜山浦の事と云うが〔これも上に同じく伝説である〕。
政宗の手に朝鮮の王子と王女とを捕らえた。王子は6歳、王女は7歳になっていた。
政宗は(この子らを)陣中に置くが食欲がない。
政宗は困って、何か食べさせようとあれこれ心を配るが、吾が俗と異なるので、その食する物がわからない。
因って官妃の、虜となった者に尋ねて、先に清正が捕らえた宮女を放還(ときかえ)らせるとき、兵卒の姦を防ぐ為に、その(清正の)髻(もとどり)に紙札をつけ、「加藤清正、これを免じる」と書いて放出した。
故に吾が兵はこの女を見ても、淫犯する者もなく、逃げ散じたので、この輩に(王子たちの食のことを)聞くことは出来なかった。
因って市坊の婦女に(王子と王女の食べられるのを)尋ね、その食物をきいて、ようやく帰帆迄養うことが出来た。
帰陣のうえ、政宗より太閤〔秀吉〕に王子王女を献じれば、太閤は「わしには用のない子たちである。
政宗、勝手にすべし」と云った。
それで政宗は本国につれ還り、妻女の小姓侍従〔四字は仙台の称呼で、世の小姓禿である〕として使った〔これを驪(レイ)氏と云うと。驪は李氏か。またその母氏の姓か〕、この女は敏恵でやや和語に通じて、また貞烈な性質である。政宗の妻が卒去のとき、自殺して殉(したが)ったと。
今その墓は、妻女の墓の後ろに在る。
因ってその後ろに祠を立て、山岡総右衛門と称し、300石を領する。王子は政宗の藩士となって、岡本定右衛門と称する。
今は又十郎と云うと。
さてこの孫は宝暦5年(1755年)の頃までは、官の御許しがあって朝鮮と連絡を取っていた。
その書は漢文で、はじめは羅山、後は仁斎等を書していた、と。
後仙台に火災があったとき、かの士の家は焼失して、その例記を失った。
これより官その願いを取り上げられなかった。
事遂に止まったという。
奇事である。
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