巻之61  〔11〕 曰人の語る義経の往跡

 また前の曰人(ゑつじん)の語る中に、義経が高館にて自害したと『東鑑』等に記してあるが、奥州の所伝は、かの処より正法山の山路、黒石を通って、けせん、相さり〔みな地名〕から南部越え、六角牛(ロッカウシ)山、甲子(カッチ)町、大槌浜に宿し、これより船に乗って満州に到ったというぞ〔義経の自害は文治5年(1189年)。この時宋の淳熙16年〕。

 この時秀衡曰く。
「源家は我が主君である」。
それならば今鎌倉に頼朝坐せば、その跡絶えたと云うべからず。
すると義経の身の安全を願うと、満州に使いを遣わし、船200艘に5斗入りの米100俵ずつを積み、これを資財として義経を彼に託したとぞ。
また義経の安泰を祈るがために、湯殿山に祈誓して、秀衡自ら肉食媱酒を断ったというぞ。

 この時奥羽二国の山伏も共にこれをやったが、妻帯酒魚等は堪(た)えられず、後弛(ゆる)んでいったけれども、今に鳥獣の肉は堅く禁じて食していない。
若し食する者があれば、必ず神罰あって即死に至るとぞ。

 また大槌浜の人家には、昔義経が宿した家があり、また弁慶が宿した、亀井が宿して、片岡が宿した抔(など)、処々にその往跡を伝える、と。

 また蝦夷の地では義経と云う言葉をヲキグルミと云うこと、みな人の知る所である。
この余、義経の跡処々に有ると云えば、異邦に往ったことは事実なのだろう。
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