続篇  巻之94  〔11〕 知恩院の御旅館へ玉川の水を引く、ほか四方山のはなし

 五月のはじめ、敬信夫人の年忌につき、麻布の光林寺へ詣でて、柏栄和尚に久闊(きゅうかつ、無沙汰)を伸べ、かれこれの物語をする中、知恩院の宮御修学として、緑山の中真乗院に御旅館されたという由である。
ここは近里なので、「宮の御左右をも聞かれないだろうか」と云えば、「ならばこの御旅館の中に玉川の水を引かせようかとの思し召しだ」と答えるので、わしは「御修学は三年の御日期と云っても宮の御実意は十年も御座らんとの御含みではないか」と先日増上の宿坊で聞いたなどと云った。
和尚は「定めては知らないけれども、宮はそのままこの都にお住まいの御志なので、それゆえ玉川の流れをも御居所の中に引かせようとの御考えではないか」と。

 わしは思った。
流石に御風流な思し召しで、感心した。
けれどもこの事如何して調えようか、互いに話し合うべきでは、と。

 この前、宮原羽林の宅で主人が咄したのは、「某が春の御使に上京した帰路、箱根の峠で松平栄翁の葬列に逢いましてねえ。
某は御朱印その上禁裏の御用物を奉じる旅なので、その由をかの家頼(家来)に申し遣わし、もとより心得たと柩を路傍に停めて、羽林は直に山を下りたのですよ」。
宮林は「ここは嶮しい路なので、殊に大きな柩を数人で担ぎ、前桁には綱をつけて坂の上より引上げつつ、何か多勢で喧しいことになったと話された」と云うと〔この葬所のこと、このほど聞いたのは、故三位存生の日、白金瑞聖寺と懇意のゆえあって契約の旨あったのを、高輪の大円寺は、勿論薩侯一手の内寺であり、故例もある由。
因って両寺争訟に及び、是非なく本国に帰葬あったと風説があった〕(瑞聖寺は黄檗、江都の大地。大円寺は洞家)、
柏栄が語るには「三位殿は瑞聖寺には格別の契遇があって、生時すでにその寿像をかの寺に置かれ、その影堂などもあるけれども、この様な故にて、没後はここに葬があるべきだろう」と聞こえた。

 また大円寺とは、薩侯のが高輪の邸に接していて邸内と等しい。
またその住持は世々薩人が住職をしており他国の僧を入れない。
また従徒の如きも他国のひと一切いない。
若し他より入ろうとする者があれば、薩藩に取親(養い親)をして、その臣の沙汰によってこの寺の徒となる。
その堅守この如し。

 またこの度来聘の琉人死亡の者があって、みなこの寺に葬った。
すでの度々『来聘録』に記した十四歳の楽童子も、この春没したのをここに葬った。
この余楽童子の廿に及ぶ者達もまた没し、同所に葬った、と。
すると下官賤卒達も死亡したと聞いたが、これ等も同じ扱いだろう。
大円寺の大方はこのようなもの。

 また三味殿は瑞聖に帰依の余り、生前に薩州に於いて黄檗寺を建立したが、この度はその寺に還葬あると、柏栄が云った。
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