続篇  巻之12  〔23〕 その1 縁者の高家を訪ねて、聞いたはなし

 この正月中旬、縁者の高家の邸にいって語る中、種々聞いたことを帰った後に録した。
 京より土御門家が出府した。上の御身固(みがため、身支度をすること)をするには、御左右の御掌に何か呪文をかき、御胸の処を推し奉るとのこと。
高家御太刀の役のとき、まのあたりで見奉ったと。また高家御衣裳紋に下向、御前に出て、御装束の端を上より下に一とならぬばかりだったとぞ。

 今の花園侍従〔実路〕は、わしの聟(むこ)園宰相中将〔基茂〕の弟である。
去々年だったか、管弦の役に出府した。
当年もまた管弦につき出府と聞く。
昨日の咄には、容儀殊更に好き人で美男子だが、甚だ吃(ドモリ)で言う事が難しく、また家は窮している。
されども廉潔な気質で、嘗て非義(道理にはずれること)はなく、公家には珍しい風である。
それゆえこのように貧しいと。

 今大名の家紋に、二つ引をつくる家がある。
わしの家も足利拝領なのでこの如しである。
因って細川氏の紋に二つ引をつくることを問えば、「かの家はもと足利同氏にあって、吉良、畠山、今川と一つ源氏であった。二つ引は家紋なので素より」と答えた。
今まで知らなかった〔この細川の家紋の事、前篇巻之八にも云っている。
これと異なる。
そうではあるがこのことだろう〕。

 伝奏参向のとき、御馳走の面々は、いつも熨斗目、麻上下であるが、出火の節はその上に火事羽織ばかりを着ている。
また先年の火事のとき伝奏立退があっても、広橋殿は狩衣であったと。
公家には火事の服というものはない。

 高家の面々は何れも、正月御謡初の夜は登城はなし。
表高家も同前だと。わしは「この御祝儀は遠く三遠の御時よりと聞く。因って高家の面々は旧家なので、この頃は御祝儀に拘らない。その余風だろう」。

 紅葉山に神祖(家康公)帆着用の御具足があった。
革包みとか聞いたが、御胴のあたりに銃丸の痕十一か所あって、その中には丸(たま)を已(すで)に抜いたものもありと。
御勇武とは申しながら、今念(おも)えば勿体ないことであった。

 高家由良氏は義貞の後裔である。
この家には栗毛の馬を忌む。
その故は、義貞討ち死にのとき、乗っていた者が栗毛の馬であったという。
因って由良の先代の中、強いてこの毛の馬で駆けたが忽ち落馬したとぞ。
また今の由良播州は養子であるが、今に至って言っては詮無きことで、栗毛馬を求めて乗るが凶事もなかったと宮原が哂(わら)う。

 今小普請衆か小知(しょうち、うわべだけにしか触れていない浅はかな知恵)の人の中、清康様の御後がある。
家紋には一つ引を付く。
この家はいつもは何たることはないけれども、不幸があって跡目仰せ付けられるときは、必ず吊(とむらい)料として金子百金かを賜っているとのこと(林子曰く、妄節かと)。

続く
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