2023/01/02
続篇 巻之12 〔23〕 その2 縁者の高家を訪ねて、聞いたはなし
高家大沢右京大夫基之と云う者は、わしも殊に懇な人であったが、今は没した。またこの家は、神祖御血判の御誓紙まで持ち伝えたことは、既に前篇〔巻之廿七〕に云っている。また宮原が大沢の言った事と前於いて云っているが、某の家は先々より菊の間(江戸城の面座敷の一つ)に席があった。
それより高家へのみ出づると、今までは故なかったが、若し時流があって菊の間より大番頭等に出ることがあれば、番頭を退役するときは、その身は寄合に入る。すると、また菊の間に復(カエ)ることは難しい、と。
今も右京大夫基昭といってまた高家である(なるほど基之未だ年若なので、高家に出る前は右京と称し、菊の間衆大名の上席になったのを、わしもよく覚えている。
このときは寛政(1789~1801年)の頃で、殊に菊の間大名と申し分あって、家格の故を以て遂に大沢は勝利にてその如くなったが、程なく高家に出た)。
久しく徳嶋侯の中に、阿波の公方と号するものがあった。
近頃の公方の子を又太郎と称したと聞く。
この公方のことを咄出すと、「これも初めは某等の同族です。またこの又太郎は今も存命で、年は八十に余るとか聞きました」と答えた。
それにつきこの公方のことは、これまで彼是の人より聞いたが、はじめは尊氏正統の胤であったが、蜂須賀氏未だ家を興す前、遂に世の隙を窺い一旗挙げるとき、寒門では人心服せざるを慮り、将軍の種を擁して、己の家を耀(かがや)す為に匿って置いたが、神君の御盛輝に光を消し、蜂須賀も御徳沢を蒙り、云いだすもあらで、歳月の移ろいに従いはじめの尊崇のようにはならず、自ずから公方も意の如くならで、後には屢々(しばしば)不足を云い出した。
横須賀も家に不自由なければ、ろくろく阿公の望みを取り協えず。
阿公は定めし蜂氏は我を留むべしと、出て居所を去ったが、思いの外、蜂氏も今は厄介なので止めることもしない〔宮原の咄では、このとき蜂氏より出奔の届けを官にしたとぞ。
またこれの前、蜂氏の参勤とか帰国とかのときは、定例金四百両とかを土産として贈ったとか〕。
この体なので、阿公も心当てが違い、遂に還らず、京か大阪かの政所に出訴したゆえ、関東の伺いとなったが、今になっては、喜連川をはじめとして足利氏も多く御養のことなので、最早御用にもなければ、取りあげはなかった。
阿公も詮方なく、やや流浪の身となりつつ所々を漂い、食すべき道はなく、縁(ゆかり)の処なので相国寺を頼んで身を寄せたけれども、阿公はその子又太郎、女某等数人のことゆえ、相国寺も困って、十三代の魂舎(タマヤ)の院々を順番にして食住させて、あるとき等持院の番で、この院にうち集まっていたが、家内より失火した。
持伝えた尊氏の甲冑、後醍醐帝の綸旨(りんじ、勅命により蔵人が自分の署名で発行する奉書形式の文書)、大塔宮の令旨等、古文書、旧来の武具等、悉く焼失させたとぞ。
正しい尊氏の後胤とした所もあるだろうに、等持院にあって自火をだし、これらの物が焼失したのは、その鬼の怒りか、或はまた南帝の御祟りか。またこの又太郎と云うのは、身の長け六尺をこえ、勇力あってよく勁弓(強い弓の意)を引く。女は容色すぐれて和歌に達し、かつ技舞をよくする。ある人曰く。
流零の日、華洛(にぎやかな街、京都の称)の間に徘徊してこの技を為した、と。或は言う。「歌学の師をなして児女に教えたこともあった」と。
今はどう過ごしているのだろうか。
終わり
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