巻之69  〔20〕 剞劂(キケツ、版木屋、彫刻師等)江川八左衛門のはなし

林氏の物語に、凡そ都下の剞劂多しと雖も、その精工は、根岸に住む江川八左衛門と云う者に過ぎるはいない。
且つ人と為りも質朴正直なる者である。
因って昌平学の官版みなその手に成る。
また林氏私用の雕梓(チョウシ、彫る、版木等の意)も彼に命じたとぞ。
水府で『日本史』開刻の挙の時、かの有司より林氏に問い合わせて、これもその者に命じられることになった、と。

今ここに〔乙酉、文政八、1825年か〕行年(ぎょうねん、こうねん、この世に生まれて何歳まで生きたかをあらわす言葉、娑婆で行を積んだ年数)八十五。
夏の頃篤疾(とくしつ、重病)ですでに殞(しな)んとしていた。
林氏の臣に請いて曰く。

「某の業の師を関根某と云って、精工であります。
某はその指授を得て当業を励んで、飢寒を免れたばかりか、今は家累数口を養い、余貲(たから)のある身であります。
師恩(師匠から受ける恩)甚だ大きいものでありますが、恨むらくは、関根の後なくして家が絶えてしまったことです。
某が死ねば劣子に遺嘱して、別に関根の家を興し、その祭を絶やさずにいましょう。
請い願わくは、以来関根、江川の両家をして永代学板の官用を命じて下さいませ。
これは私の没前の至願でございます」。

林氏はこれを聞いて、その志を感じて、「必ず情願の如くなるから」と諾した、と。
また八左衛門辞世の歌を作ったと一覧を請うた。
林氏は視て、立志の着実を褒めた。
その後、はや世に思い残すことは無いと、静に終焉を待つ事数日。
計らずも漸々(ぜんぜん、徐々)に病止んで、仲秋に及んで全癒した。

この上は己の業のことなのでと、かの辞世の歌を自刻して墨本として病起の後はじめて林氏に呈した、と。
如何にも矍鑠(かくしゃく)たる老人であると林氏はまた語った。

  歌云
人となる人になる身になにがなる
     こころの花がさいてみになる
            八十五歳江川美啓
              写真参照

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