三篇 巻之18 〔6〕 歌舞伎草履打

 当世劇場(シバキ)にて、草履打と称する歌舞伎を為す。婦女が観て、みな感慨していた。
趣きは某の老女岩藤、同じ中老尾上、この下女はつといって、その云々は、人の普く知る所なのでここは略する。

わしは一日備前の儒士湯浅新兵衛(『人物志』に云う。
湯浅、名は元楨。字子祥。備前人。
岡山候の世臣。常山はその号。業を南郭(くるわ)に受ける。
松崎維時と交善し。
年七十四で没す)が録した『常山紀談』を見て、その事があった。
曰く。

  (原文ママ)大久保長門守教寛の内所に奉公せし女中、或時心得違せし事を、奥の年寄大に怒り、罵て打擲に及びぬ。
中老親にもたたかれし事はなきよと独言して部屋に帰り、文書て下女二人にもたせ親のもとにやりぬ。
一人の女一人はのこりなむと云を、大事のこといひやる文なりとておして二人出しぬ。
道にて、怪しき事よ、常に二人一度に出されし事も覚へず、顔色も只ならぬ有しとて、文を披らき見るに、しかじかの事にて自害するなりと書戴たり。
扠(さて)こそあるべけれとて、一人のはしたものにはとく行れよ、吾帰りておし止むべしとて、急ぎ帰りて見るに、はや自害してありしを、夜の物打かけ、小脇差の血を拭ひ、吾が懐にさして、さあらぬ体にて年寄の部屋に行、語申度事の候。
只今部屋に来られよと云しに、程なく行べしと云ければ、帰りて又行、数度に及びしかば、年寄来て夜るの物あくれば、朱に染て中老は死してあり。
其時、女、是は今日の事にてかくは自害に及びたるなり。
主の仇よと云もあへず、小脇差を抽て刺殺しけり。
両人を殺したるならむと捕へて糺し問るるに、懐より文を取出し、証拠は是に候と詳に云述て、主の仇をば討留ぬ。
思置事も無く候とて騒ぐけしきもなし。
長門守、女中残らず揃へて、彼中老の下女の事いかが思にやと尋らるるに、忠義といひ、けなげなると云、驚き入たるよし口を揃へて云けるに、さらばいかがせむ、各存候旨を申べしとありしかば、何れか存寄たる事の候べきと申す。
さらば此度の次第を褒るに詞なしと云べきなり。年寄の死して事もかけぬれば、則年寄に取立然るべからんとて呼出し賞せられけるとぞ。

 右(上)の大久保教寛は、今の閣老加州の支家、雲州の祖先である。
『続藩翰譜』を閲覧して云う。
門守藤原教寛は、加賀守忠朝の二男、延宝三年(1675年)六月始めて御目見え、天和元年(1681年)中奥御小姓、元禄五年(1692年)御小姓組頭、五位下長門守に任叙する。
この年御側衆、宝永三年(1706年)西城若年寄、禄は万石になる。
享保十五年(1730年)まで仕え、元文二年(1737年)卒す、年八十一と見える。
するとかの義女の復仇は、この間のことと知った。

 また近頃貸本に、『松岡義女鏡』と云うものがあった。
云うにはこの事は松平防州康豊後宮のことで、享保九年(1724年)の四月だという。
防州の妻は、亀井隠州茲親の妹で、老女沢野年六十余〔この婦人は亀井氏臣の女と云う〕。
側女於道、年二十一〔父は岡崎候の浪人、正木氏〕。
その部屋女佐都(サツ)、年廿二〔長府の毛利甲州、家中の者と云う〕。
これ等の云々にて、沢野は間違いを怒り、長局の廊下草履を以て、於道に蹴り当たって、於道自殺した。
因ってその部屋女〔佐都〕、沢野を於道の部屋にて、その死骸の側に刺殺の旨、事明らかと雖も、その文は鄙びて俗で、ほとんど今の世の浄瑠璃と伯仲している。
されども湯浅の記と比べれば、その事実に似て、侯邸もまた異である。
今執がこれを分かたず。

 また云う。
佐都は一旦人を殺して、その本に帰され、後遂に防州の屋敷へ入れて、奥中老と為し、名を松岡と改むる。
これは戯場に中老とする所以。
また云う。於道の辞世の哥を載せる。曰く。

   藤の花長き短かき世の中に
        ちり行かふぞ思ひしらるる

これも戯場に、老女を岩藤とする所以。
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