2023/04/03
三篇 巻之70 〔7〕 ある普門律師のはなし
今緑山の宿坊雲晴院の住持は、因幡の人である。また過ぎた世に聞こえる普門律師と云うのは、同国の産まれで、雲晴の来歴をよく知りたく、その語るままにここに記そうと思う。
律師はかの国鳥取の城下に生まれた。
俗親は長谷寿庵と云って医者であり、その三男である。
幼年のとき城下の日蓮宗妙要寺の弟子になった。
この寺は因候の家老鵜殿大隅が開基して、今も檀家百五十軒ほどある。
普門は年三十二三の頃までこの寺に住持していた。
これより改宗して、天台伯耆の大仙寺に移住した。
居ること七年、京の比叡山に到って留まった。
その後高野山にて居ること七年、真言の密部を学修して、再び叡山に還り、星霜十三年歴し、その間撰に値(あ)い、京師荘厳院宮の御師範である。
そうして五年の後、仙洞様在位のときであったか、太子無きことを憂い給い叡山に内勅され、仏法力に依って皇子まし坐すの修行あるよう旨に就いて、一山評議した。
護所童子と云う大法、その余も当時に於いて、普門精密なのでと、これを勅答にすれば、すなわち普門を御所に召された。
関白殿より直門あって「内妃のお妊りあれば、皇子、皇女何れか」と尋ねられた。
御答えには「一七日修法の上しか、御答え成り難し」と申した。
これより七日の修行が終わり、参内して、「極めて皇子でありましょう」と申し上げた。」
「また万一皇女になるのであれば、変定男子の法を以て、必ず皇子降誕まし坐すべし」と堅く答え奉った。
それから身籠りし妃は十月を満たし、皇子の降誕坐ました。
次いで十五歳に至らせ給うまで、月毎に三たび参内して、御長久を禱(いの)り奉った。
この皇子すなわち今上帝にて坐す。
因って、御即位あった後は、普門関東に下り、専ら仏法の天文暦道、弘通を心願した。
最初の上野の御門主に願い出ると、聞いている。
だが司天館の方、暦法に故障あって、表立弘通の成り難さ、但々釈家は構なく、その暦書のように、俗間への売買を禁じられる。
つまりその頃緑山には教誉僧正が在職にて、かの才を挙げられ、大方丈に於いて、仏法暦書を講釈した。
因って山内三嶋谷なる空寮に住み、宝誉僧正の代に、恵照院に住職する。
天保五年(1834年)九月七日、その院に寂す。
恵照院は律院である。
またわしが律師とはじめて相見たのは、天祥の南道の介に依って、駒込の済松寺に往き、天文の聴講に交わった。
これより識人となって、芝に遷ってもしばしば恵照を訪れては、その説を聴聞して、歓喜しては還った。
ある年律師が上京した。
そして噂が流れて来て、東帰は無かろうと。
わしはすなわち真田信州が師となるよう懇願していると悟ったので、往って律師に(東に)帰るよう説いた。
かつ江戸に入ると品川に送った。
雲晴の当住持は、このときに入り初めとなった。
因って律師は再び関東に還ってきた。
これ等のことは後輩の為に貽記した。
律師の没ることは殊に痛惜する。
因ってその葬墓の所に就いて、親しく香華を供えた。
墓地は吾が雲晴夫人の御墓所同域の辺りである。
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