続篇 巻之57 〔6〕 甲州恵林寺を詣でて

 印宗の記に、甲州恵林寺に詣で開山夢窓国師の像を拝して、額に刀疵があった。
そこで訳を聞いた。
信長焼き討ちのとき、僧徒がこの像を持って逃れて、軍卒がどこまでも追うので、像を山林の中に置き、筵を覆っていたのを人と見誤って、信長はこれを斬ったと伝わる。

 〇また不動の像があった。信玄は生前のその髪を植えたと云う。殊に威容のある像である。
 〇別に不動の小像が厨子の中に安ず。甲冑を着せている。堂頭和尚の導きで拝したと。
 〇また信玄の甲冑もあった。涎掛け、小手、脛当、草摺等、黒糸威黒塗、古色あり。
 〇信玄寄附の證文一通。寺領の事一ッ書にして四五ヶ条。年号永禄七年(1564年)かと思う。快川和尚に侍者禅師信玄押字。
 〇また二つ折りの状に、何か造営のことが五六行ばかりの草書もあった。信玄の朱印。
   ↑の二通は、黒塗長文箱に納めてあった〔文箱内に金梨子地〕。表に金粉銘。信玄公
   證文恵林寺の八字を記す。
 〇右(上)に挙げる信玄の甲冑と云うものは、わしは先年、恵林の住持を携えて、この都に出しとき、市谷の月桂寺に往き、住持に逢った〔恵林寺は、天祥院殿(松浦家第四代松浦慎信公)以来、わしの家に往来する。因って住持に逢った〕。
親しく会い、且つ函工春田丹波にその形を写させた。
その状を書き留めて置いたが、戌寅(文政1年、1818年か)の災いに悉く烏有(うゆう、まったく無いこと)となった。
またこの甲冑は信玄の遺物ではない。
神祖(家康公)御一統の後寄附されたと云う。
ゆえは、この甲冑は、神祖が久しく持ち給いしが、かの寺は信玄縁の所なので、恵林に寄附された。
代々の住持は麁略(そりゃく)にすべからずとの御旨を、時の老中の添翰(てんかん、文書などにそえる手紙)があった。
これも写しとどめたが、甲冑の図と共に焼失した。
これ等の御盛徳、不窮に伝えて金石よりも堅し。

 〇院宗が恵林に寓(かりずまい)したときの目撃。
居間書院 掛幅  騰竜(あがりりゅう)   陳所翁筆
また       虎            林良筆
         〔乳児したがう〕
表書院  三幅対 中観音〔左右十六羅漢〕
         中可翁〔左右〕牧渓
次の間      李白観滝図        探雪筆
〔この図は、憲廟(第四代将軍家綱公)が柳沢氏へ御成りのとき雪を書かせたと云う〕
方丈東西二間床  大幅唐画〔花鳥〕

方丈玄関の両所は、唐破風。霊屋、仏殿、書院、浴室、何れもひはだ葺(しゅう、茅や板、瓦ろうで屋根をおおうこと)。

  右(上)印が見る所。しかしながら林良は明人なので時代は近い。
所翁、可翁、牧渓らは珍賞したいもの。但し恐らくは模写だろう。
またこれは世に聞こえないので人は知らぬままなのか。
抑々(そもそも)仰信玄の旧物だったのか。
関連記事
スポンサーサイト



コメント

非公開コメント

プロフィール

百合の若

Author:百合の若
FC2ブログへようこそ!

検索(全文検索)

記事に含まれる文字を検索します。

最新の記事(全記事表示付き)

訪問者数

(2020.11.25~)

ジャンルランキング

[ジャンルランキング]
学問・文化・芸術
1328位
ジャンルランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
歴史
181位
サブジャンルランキングを見る>>

QRコード

QR