2023/05/01
巻之56 〔22〕 日蓮の謝状
世に伝う。日蓮『安国論』を著するに由って罪を得た。
北条時宗は由井浜に於いて斬ろうとした。
時に怪異がしばしば現れるのでこれを免じるに至った。
その日は文永八年(1271年)九月十二日であった。
然るに鎌倉建長寺の所伝は、かの開山大覚寺禅師、この時に当てて、その刑死を憐れみ、命を乞いて脱ることが出来た。
日蓮はその厚意を謝する為に法華八巻を自書して、禅師の恩に報いた〔禅師の名は道隆。冉(ゼン)氏にして宋人である。寛元四年(1246年)帰化した。即ち建長寺の開祖〕。
今現にこの経〔紺地金泥〕は建長寺に蔵(おさ)むと。
また聞く。
建長寺に開山禅師遺物の名鏡がある。
かの日蓮自書の八軸と並んで宝物として秘蔵して、人が見ることを許されず。
毎年七月廿四日の禅師の示寂(菩薩や有徳の僧の死)の日に仏殿に出して、終日観拝が許されている。
それなのに塔頭(たっちゅう)の主僧が側らの護持して、猓に近づいて見ることは出来ない。
これは嘗て、日蓮の徒が奪おうとしたことがあった由である〔また日連はもと天台宗に学んだが、また大覚寺に就いて、禅機をも問うたと伝わる〕。
また聞いた。
禅師の為に日蓮は刑死を脱したとき、その芳恩を謝するの書があった。
今建長寺に伝わる。その文。
昨日拙僧浜辺に於いて、断罪にすべしの処、大禅師の御慈愛を以て、死罪一等減じ、遠流を被るべし処となりました。
誠禅師の大恩、生々世々忘れ難いものであります。
昨日御慈悲の賢使者の無きときは、日蓮並びに門徒の滅亡は疑い無しでございました。
後日露命ある者として、どうしてその恩に報い奉らぬことができましょうか。
右の通り侍者の中より上達請いたく宜しく御願い申し上げます。
文永三年九月十四日 日蓮 (押)
建長寺方丈大和尚
この書を得たのは、天祥寺前の薬店柏屋と云うが、この七月廿四日に鎌倉にて往って、建長に詣拝して覧を請うた。
そして日蓮自書の八軸は、恒例に依って見ることを得たけれども、かの謝状は一山の衆議なくては見ることが出来ず空しく還った。
因って船橋の社家某と懇意にしているので、このことを語った。
社家の写しを蔵む所の寺社奉行所にある控えの模写を借りて写してくれると。
そうすれば目撃(実物)のものではないが、それを読むことが出来る。
また調べていくと、ここに書する年月を照らすと、日蓮が難に遭ったのは八年だが、ここには三年と記してある。
この罪を蒙ることは、かの宗の年録にも載せてあって事実である。
それではどうしてその前に恩を謝することが出来ようか。
また月日の如きも九月十二日なるが、謝状には十四日となっている。
これは赦免の後にして謝するの理然りである。
謝状また妙典を写することはなかった。
この経典は不日(近いうちに)に成るものではなかろう。
日を積み贈れるもので、あろう。
これ謝状の無き故である。
また日蓮の時実、『別頭仏祖統記』後作『紀念録』等を見ると、この刑を免れる前後、天変怪異がしばしばあった。
ここを以て然りと。
これは実伝であり、還って信じがたい。
謝状に拠れば、禅師の憐寃と云う者、世の通情である。
また両録に刑免の後、日蓮は佐州に謫(たく)される(配流さる)と云う者、どうして北条氏の悔悟して、当然のことがあるのだろうか。
謝状の死罪一等減ずる、遠流を被るべき処の文に拠るのだろう。
ただ年日の違うものは、しばしば伝写して誤る所かや。
また文永三年(1262年)は禅師謫所より鎌倉に帰る年であって、日蓮は『統記』に母の病に侍ると云っている。
するとともにその事あったのではないか。
また八年は禅師が建長に在って、弘安元年(1278年)を以て寂し〔年六十六〕、蓮は五年に逝する〔年六十一〕。
- 関連記事
-
- 巻之80 〔2〕 大君の御ことば
- 巻之56 〔22〕 日蓮の謝状
- 三篇 巻之64 〔6〕 獄司の用いる鎗
スポンサーサイト
コメント