2023/05/05
三篇 巻之38 〔8〕 薩州安徳帝の御事跡
高安彦太郎〔脇仕〕が語るは、薩州の臣會昌遒〔故栄翁どののとき、會昌遒と云う臣は本草に委ねる。
わしも時には文通したが、蓋しその子か。昌桂は既に没す〕、
その人記文に委しく、録する者は多い。
ある日語った。
安徳帝の御事跡はかの地にては殊に秘することがあったと。
彦太はあるとき、侯の狂言鷺健次郎に託して問うたら、曰く。
「かの地に古社があります。この社内に古文書がありましたが、今は城下に送って、社にはございません。
この余、かの少帝の記というものがある趣です」。彦太は借りたくと云ったが、未だ手にしていない。
如何にも薩の辺りに平(タイラ)の縁のあると思えて来る。ゆかしき物語である。聞いてみたい。
〇右古社の古文書のことである。〔丁酉、天保八年、1837年か〕十一月、健次郎の兄仁右衛門が来て、四方山の物語をする中に、仁右が云った。
薩州辺鄙の社中に、古代より嘗て啓(ひら)かれたことのない箱がある。
栄翁殿の時、「くるしからず発(ひら)くべし」と、視られたら、安徳帝の時の文書であったと。栄翁も驚かれ、再び元通りに緘(しめ)られたと。前の話と異なって〔わしは思うが、栄翁故の如せられたことは公義へ憚れることがあるのか、またその家に故あってか、そのことは訝しい〕。
〇仁右はこの話を云いだした故は、仁右衛門の家は、はじめ南部に住していて、観世大夫、鼓者新九郎などの輩と、東山殿の頃よりの者である。
因って豊太閤の頃も、狂言師にて、朝鮮陣のときは、名護屋までも随いて往き、今家紋とする五徳(印は末尾の写真にて参照)の紋は、かの地に於いて、神祖(家康公)は御戯れに剪形(キリカタ)を為(せ)られ、「この形は汝に与える」といわれた。
遂に「家紋と為(せ)し」と云った。それなのにまた、古くより家に伝う箱が、長さ一尺二寸余りもあろうか、横四寸ばかり、嘗て啓かぬようにと言い伝わるものがあった。
よく考えれば、何れ二重箱と思えるが、「ガラガラ」と音がする。
先祖よりの言伝えとなるが、啓いて視たい。
いかが宜しいかと、酒中の問いなので、わしは「慥(たしか)には定め難いが、六平太の家に、その祖先より伝える、『松君子』と云い、元日謡初めの小謡があった」と答えた。
また家例人日の囃子初めに、三番〔『難波』『江口』『猩猩』〕を舞った。
その謡は、みな御当家に不吉の文句がある。
わしははじめて見出した。
子孫も知らなかった。
その家の秘箱も、察するに、豊太閤の懇遇(こんぐう、心のこもった丁寧なもてなし)の文書等なのだろう。
因って焼印も、旧恩に戻れば為し難く、また既に御当家に随従奉れば、人に出し示すも憚恥多ければ、極めてこの様に誡(いましめ)とするかと云えば、仁右は拍手し、貴慮然るべしと、また酌で盃を傾け、笑談に遷った。

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