巻之96 〔16〕 松王、梅王、桜丸

 浄瑠璃謡に『天神記』と云うものがある。
これに菅丞相の童に松王、梅王、桜丸とて兄弟の者を謂う。

 この頃『遠碧軒記』〔黒川道祐〕を読んで、云う。

 北野社五百石は松梅院一人して進退した。
今より三四代以前までは清僧であったが、途絶えて今は梅津と梅宮との間の竹の一村ある所の真言宗より、松梅院をもする事も有ったと見える。
この寺に松梅院よりの入用の帳など残って有ったいう。
妙蔵院はこれよりふるい。
徳松院は松梅院一代の隠居である。

 さて村上天皇のときに十河吉道と云う者が別当になった。
この者に子が四人あった。
召し連れて参内していた。
この者ども三方に笹の葉をしき末広を下被り、この四人の末は今の宮司にて能瑞常〔或紹と有る〕敬と云って四姓の通字の者、家の紋は笹の葉に末広をのせた物である。

 扨(さて)文子と云うもの、天神がのりうつらせ給うて程無く死んだ。
即ち天神にいわいて今の文子天神とて、西京の御供所のある西の側町の並んだ所に松木二三本ある内に小社がある。
今某所ではないが、神楽をすすむる神子を代々文子と云って来たのだ。

 扨西京の主典松王とて菅神の車副(そえ)の舎人の子孫がある。
白装束に髪をからわに結っている。
今にその末両人あって、末社の散木散銭をとる事であった。
文子社は狩野縫殿助殿の裏町の西側、今意山と云う医者の屋敷前である。
宮司は延宝九(1681年)のころは八十人余あった。

 これに云う所の松王より浄瑠璃の作者が取った。
かの所作の中に、時平大臣の車を、この三人の童が輓(ひ)き争う体あるが、松王は時平方、梅桜二人は菅氏方である。
これは狂言の仕なしである。
またこのときの出立は三人とも白丁、烏帽子着て総角(あげまき)の体である。
かたがた前記の云う所と符す。
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