巻之28 〔20〕両院の御製俳句、於夏と清十郎

 明和(1764~1772年)の初め、白露と云う人の著(あら)した俳論の中、両院の御製を挙げて、
    首夏の頃ほひ時鳥の一声を聞(きこ)し召て
                      後水尾院
  清十郎きけ夏が来てなく時鳥
                      後西院
  笠がよう似たみじか夜の月

  このように本院新院ともに翫(もてあそ)ばれると、月卿雲客も盛んに云々と記す。
またこの頃柳亭と云う者が云うには、播州姫路但馬屋の娘於夏が、手代清十郎と私情を通じた。
親九左衛門はこれをさける為に、清十郎に盗賊の名を負わせ退けようとしたことが公に聞こえた。

 遂に清十郎は無実の罪に問われ、於夏は狂気となって、則ち但馬屋も身上はこれよりおとろえへていったと。

 於夏は老年になって僅かに茶店をかまえていたところ、『乱萩三本鎗』という冊子に見えた。『玉滴隠見』15の巻に寛文2年(1661年)のこととあった。『五人女』に4月18日とある。この2本をあわせて見ると、清十郎が罪を着せられたのは寛文2年4月18日であろう。
  
 清十郎きけお夏来てなく時鳥
 御製というのは誤りであろうか。『江山子筆記』に江戸徳元の句とあった。『江山子筆記』に寛文10年(1670年)の奥書があって、清十郎は罪を着せられて後わずかに9年、徳元は現在の人なので疑うことなきよう。しかし俳論の言も廃すべきでない。

  且つ御製の誤りなのはその證(あかし)はない。また後西院の崩御は貞享2年(じょうきょう、1685年)なので、寛文2年の後24年である。
するとこの卑事は勿論知らし召されたから、若しくは徳元の句にその次を製し給われたか。

  またこの御句の出所は、俗間の道行と称(いえ)る謡いもので、
侍地山ゆえこえくれば庵崎や、
向ふとほるは清十郎じやないか、
笠がよう似た菅笠が
〔この謡、もとは義太夫浄瑠璃であろう〕と云うふこと有るなり。
 
  また因に後水尾院の御製をしるす。
        昆布柿  野老
 蓬萊の山はこぶかきところかな
 ふたつどりいづれ鶯ほととぎす
 おもしろさたまらぬ春の小雪哉
   戊申正月東南に白気の立ければ
 あまのはら雲の帯する子もち月
 馬合羽雪打払ふ袖もなし
 白炭や焼ぬむかしの雪の枝
〔ふたつどりは、俗に両端決し難きを即断する辞(こと)ば。
あまは、俗に女子を称する辞ば。はらは腹〕
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