三篇  巻之68  〔12〕箕田八幡宮祭礼

 この8月14日(庚子、天保11年、1840年か)には、官医永琢が平戸より帰省すると聞いたので、数日の労を謝しようと、品川へ赴く中、緑山の宿坊に憩うと、告る者があった。

 「明日は箕田(みた)八幡宮の祭礼にして、当年は18年歴(ぶり)とか20年とか、久々のことにて、別して緒人群集しているので、途中の坊は立て込んでいるだろう」と聞こえてきた。
 
 急ぎ、増上山内の鑿通(きりどお)しを通り、箕田へかかると、如何にも混雑していて、弦鼓の祭俗があって、男女が湧いたようであった。

  されども無難に通り抜け、品川へ着いた。

 以前、宿坊雲晴院が話したことを思い出して(わしは)云った。

 「この箕田の祭りには、嘗て神祖(家康公)の御軍陣の御旗を、八幡宮へ御寄進あって、祭礼の日には、今もその御旗を出すということだ」と。

 わしは院主に問うた。「さらば今日の通行、若し御旗を望むならば下乗(げじょう、乗っている物から降りること)すべきではなかろうか」。

 院主曰く。「これが出るのは、明くる十五の御正月です。今日ではありません」。

 わしは途中の畏れもないと聞き、やっと心が安んじた。
 

 偖(さて)、この御旗と云うのは、かねてより聞いている。

 総白無紋にして、清和源氏の御旗とかであると。

 またこの御祭の日は、いつも3本を出し、また3本と合わせて6本と云う。

 雲晴は云う。「3本は御扣(おひかえ)なのでしょうか、如何にも白き御旗と聞くと」。

 わしも「嘗て西城御幼齢の御時に、5月御城内に立てられた御旗が御城内より瞻(み)えるので如何にも総白の御昇旗にして、吹き流しの小旗までも総白であった。還って葵紋の御昇旗は、それとは別に連ねて立てられたのだろうな。また嘗て久昌夫人(静山公の御祖母殿)が物語られたが、昔御軍の中、御味方なる金森氏は、清和源氏にて白旗、神君(家康公)も同じく御白旗だった。それで敵軍は見間違ったそうだ」と。

 わしはこの頃、軍講者宗耕に問うたが、「これは正しくは、関ヶ原合戦のときにて、大垣城の敵兵が、金森氏の旗を望み見て、神君の御着陣かと驚いた。

 程なく御着陣あって、その御勢に敗れたりと」とのこと。また曰く。「この金森氏の旗とは、総白の吹き貫けにして、50本であったと。官のは御昇旗で、ともに純白の斉(ひと)しきを、こう言うのだな」。
 
 また云う。箕田八幡祭礼の日は、前日はそうではないが、15日には、楼上の客はみな居ることを禁じた。楼下の店前の者も、渾(すべ)てその御旗を望めば、下坐して跪(ひざまづ)き、伏すと云う。
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