続篇 巻之26 〔3〕喜多六平太

その2
 これより三代将軍様猷廟の御時召し出され〔家伝。神祖よりして台廟(台徳院、秀忠公の霊廟)の御ことを云わざる者は、六平太が江戸に赴くのは元和2年(1616年)にして、この年より猷廟の御世を継がせられるは、7年の後元和9年(1623年)であった。

 よく寛永に至っては、台廟すでに大御所と称され、9年の後薨逝である。

 すると猷廟御世継の後召し出されたことであるならば、台廟の御耳に入ったかは知べれば、神祖を云って台廟を云わざることを察しておきたい〕、その後仰せあったのは、「汝、観世の上坐にいて、両氏相並び猿楽の輩を支配すべきや、または別に一家となって四座の下に従い、一坐を以て為さんか」と問わせ給う。「古時の風とて縦(ほしい)ままに四坐の下にいて芸術を専らにいたします」と答え申すと、四坐の列にも入らず、神事にも往かず、江都に常住して御用を勤める家となった。

 またかの家の位牌を聞くと、法号華台院長誉春巌英林居士、承応2年(1652年、癸巳)正月7日没、行年72歳。

 これに拠って逆算すると天正10年(1582年)の生まれである。

 適切なときは、神祖の7歳のとき能を為たのを御覚えあったと仰せあったのを考えると、天正16年(1588年)である。

 この年は〔『豊臣譜』〕、4月に秀吉は後陽成帝にその第(てい、邸の意)にて聚楽の行幸を請い、主上御滞留あって伶楽等種々の御遊びがあった。

 猿楽(ノウ)のことは見えないが、思うにこの月の前後に猿楽があったことは察したい。思うにここに依り。

 左京が猷廟に召し出されたのを考えると、御世継の時は元和9年(1623年)である。

 この年左京は42。これより台廟が薨ずる時〔寛永9年、1632年〕左京51。巌廟(4代将軍家綱公)御世継の年〔慶安3年、1650年〕69。

 明くる年猷廟は薨じ給い、その明くる年承応(1652年)と改元し、2年(1653年)に左京は没した。

 以上のことを思うに、元祖六平太の御当家に出たのは元和9年(1623年)の頃で、年は40余りである。

 これも考えると、前に記した『松君子(ショウクンシ)』と云う小謡の文句は心得ぬと思われる。

 その故は、「松は君子の徳ありて雨露霜雪もおかさず」とは、全く神祖を申し奉らぬ。

 「十かへりの花をふくむや若みどり」とは、返ると云う言葉、回復と云わぬが如し。

 「猶万歳の春の空」とは、未だ時至らぬと聞こえないか。

 「君の御影もつく羽根の」とは、つくは尽と聞こえる。面白からぬ言葉かと。

 「このもかのもに立よりて」とは、姑(しば)らく時変をまつと云うが如し。

 「老を忘るる詠して」とは、しばらく忘れる望と云うが如し。

 「春も栄行」は、栄(サカ)は寓詞にて逆(サカ)と通じる。逆行である。内に含めるものが有るが如し。

 「山路」とは陟(のぼ)ること。再び興ることか。

 するとこの輩の内心は、なお太閤の恩顧を忘れずに、まげて時世に随う者だろうか。

 それなのに子孫に及んでは、終に御当家の御恩沢に化して、この謡の原意は知らずなのか。

 これもまた目出多喜(めでたき)御代の事である。

終り



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