2020/08/08
巻之六十ニ 〈一六〉 書『柔咄(ヤワラバナシ)』、八角(角力)
『柔咄(ヤワラバナシ)』と云う書を見て曰く。〈上略〉享保の始めまでは、相撲両人土俵の中に中腰で立ち会いて、行司団扇を引きと取り組むことになる。
要はその団扇の引き方に依怙贔屓もあるより、この八角〈相撲の名。
この八角とは、鏡山の後に出て、鏡山は関口流の柔術を学び、相撲に工夫練達した者である〉気の練と云う事を工夫し、両人とも下にいて、互いに心の相遭ところで、取結ぶ事になる。
されば綾川、七ツ森、源し山田の類も、八角に学び、一時に名があった。
木村庄之助も八角に学び、行司の法を良くしたと。
だから今の角力はみな、鏡山、巻瓦、八角流にして、古の相撲のとり方はあらじと、父翁がはなされた。
わしが若年の頃見た時は、前角力などは、みな立ちかかりて取っていたが、近頃はみな下にいて取りかかっている。
この下にいて取るより、(昔の腰を上げた取り口は)角力に対する心を汚くする。
幾度も幾度も、まだまだと云って立ち会わない者が多い。
特に近頃小野川のすくいは、谷風との取り組みでいつもいつでも、隙取りで、最も見苦しい。
その取り組みの清きは、宮城野丈助である。
向かうより、かかれば待てと云わず、直に立ち会う。
その弟子の錦之助もしからば、その立ち会いを宮城野流と云いし。
たとえ取り口に損があっても、毎度負けになることもあるけれど、その心は清くこそあるのだ。
これを見ると、角力の世界さえ百年に及ばず違ってきている。
『柔咄』は文化九年に収録した物である。
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