2020/12/10
巻之二 〈27〉 立ち位置を理解すること
中村弥三郎(富士見御宝蔵番。和哥(本文は歌から欠をとっている)をよくする)が語るにはー。某〈名忘れ〉は江都(えど)で名のある狂哥(本文は欠なし)人で、その道の宗匠である。
ある時、狂哥(欠なし)集を選んで、これを京師(みやこ)に上らせて、冷泉某殿(名忘れ)に点を乞うた。
けれどもその後一向に沙汰がない。
だからまた手寄(たより)を求めてその左右を聞くと、かの歌集が返された。
某は喜んで開き観るに、一首も点がない。
これは如何にと再び視るがない。
とうとう本の末に一首の歌を見つけた。
某がよく視ると、冷泉殿の手跡である。
敷島の道を横切るかま鼬
てんになるべき言の葉もなし(本文ママ)
狂哥(欠なし)師はこれを読んで、流石は歌道の御家と恥入った。
※歌から欠を取った字(哥)は、本家本元からは今ひとつの者に使う言葉なのでしょうか。
冷泉殿にはちゃんと歌という字を使い、線引きがあるように思いました。
(Note)
一流とは言えない者には歌から欠を取った字を当てていて、冷泉殿には歌という字が使われていました。
その字で区別されているのでしょうか。
中国語では「哥」は兄など年上の男性を指す言葉だそうですが、日本では普通に「歌」と同じように使っていたと書かれていました。
- 関連記事
-
- 続篇 巻之八十四 〈4〉 昔も今も。深き観方を教えらる
- 巻之二 〈27〉 立ち位置を理解すること
- 巻之一 〈29〉 雁金打という弓
スポンサーサイト
コメント
No title
2021/01/08 15:17 by 原田 URL 編集
No title
2021/01/08 15:18 by 木村 URL 編集
No title
2021/01/08 15:18 by 木村 URL 編集