巻之六 〈41〉 辻切り

神祖(家康公)が駿府在城の内、江戸では御旗本の若者等はしきりに辻切りをして、人民は嘆くに及んでいると聞こえてきた。

「この事をいかが計わせられようか」と密議があったので、板倉周防守は自ら御使い蒙(こうむ)ると「速やかにやめさせるべきである」と乞われ、その旨に任せられた。

防州は江戸に着いて、「御用があるので、一同と登城するよう」との旨を御旗本中に伝えた。

いずれも登城された時、所々辻切りの風聞を専らお耳に入れた。

「それ(辻切り)を召捕る事の者がないのは、武辺(武芸に関する様々な事)が薄くなっていっている事である」と思し召された。

いずれも心掛けたので、辻切りの者は召捕れる様と仰せのよし申し伝えられると、そのまま辻切りは止んだという。


※家康公が出て来るので、背景から板倉重宗(天正14〜明暦2. 1586〜1657)と思われる。下総関宿藩の初代藩主。秀忠の時に周防守に叙任された。

(コメント)
板倉周防守重宗のことを初めて知りました。少し調べてみました。すごい人ですね。

この話は2代将軍に秀忠がついた1605年に、重宗が周防(すおう)守に任じられていますのでその後ですね。
京都所司代になったのは1620年で、京都をはじめ西日本の治安の総元締めになっています。
人望が厚く、今の法務大臣など見習うべきことが多そうです。

甲子夜話の背景から考えると板倉周防守の京都の屋敷が現在の乃木神社となっているようですので、京都から江戸に行き、江戸での辻斬り騒動をうまく沈めたという話と読みました。

関宿(せきやど)は利根川を使った水運の要の場所ですが、関宿藩主になるのは少し後なのでまだ重宗は京都にいた時の話だと思います。
またWiki.に家康が1602年に辻斬り禁止を命令し厳罰化を図ったと書かれていましたが、家康が将軍から身を引いて駿府に引っ込んでからまた江戸では辻斬りが増えて困っていたということではないかと思います。(by S.K.)
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