2020/12/16
巻之七 〈15〉 藤堂高虎、至高の忠義
上野にある神祖御宮は寒松院の隣にある。この院はすなわち藤堂高虎の〈寒松院は高虎の法号〉の埋葬地である。
この故は神祖御世の中、高虎は忠勤していたから。
後神祖の御病が重くあらせられた時に、高虎は御床の下に候ず。
時に神祖が言われた。「はや今生に別れたらば再び逢うことはないだろう」。
高虎が答え奉るには「臣(自分)はまた地下に於いてまみえし奉る事は難事ではございませぬ」。
神祖は再び曰く。
「なるほど。但し汝とは宗旨が違う。恐らくは同所に往生いたさぬ」。
高虎曰く。
「尊慮を煩わされませぬよう」。
即御次に退き、改宗して天海僧正の弟子となった。
また御前に出て、その事を申し上げた。
神祖は殊に喜ばれた。
高虎が卒るにおよび遺命して上野に葬らせた。
これは地下に於いて、永く御側に侍する御約束を奉ぜた所だという。
(この様に)聞き及んだが、(人から聞いた事でも)涙を催させるである。
(コメント)
城つくりの名人とも称された藤堂高虎という人物や家康との関係などを理解しないと解釈も難しいです。
神祖は家康のことで、神祖御宮は「家康の御宮」であり(上野)東照宮のこと。
上野東照宮のHPに記載されている内容に、
「 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。」とあります。
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コメント
No title
神祖は家康のことで、神祖御宮は「家康の御宮」であり(上野)東照宮のこと。
上野東照宮のHPに記載されている内容に、
「 1616年(元和2年)2月4日、天海僧正と藤堂高虎は危篤の徳川家康公の枕元に呼ばれ、三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しいと遺言されました。 天海僧正は藤堂高虎らの屋敷地であった今の上野公園の土地を拝領し、東叡山寛永寺を開山。境内には多くの伽藍や子院が建立されました。1627年(寛永4年)その一つとして創建した神社「東照社」が上野東照宮の始まりです。」とあります。
2021/01/07 09:14 by 木村 URL 編集
No title
神祖を初めて見た時は、家康公とすぐわかりました。文脈から。
2021/01/07 09:16 by 原田 URL 編集
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2021/01/07 09:16 by 和賀 URL 編集
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2021/01/07 09:17 by 木村 URL 編集
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流石深い知識ですね。江戸崎の民話を今確認しました。雨乞いに力を入れる発揮されてるけど、ヘッピリ坂は、土地のお坊さんの嫉妬ですね。何の為に修行して人を導いているのでしょうね。
2021/01/07 09:18 by 原田 URL 編集
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2021/01/07 09:19 by 木村 URL 編集
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2021/01/07 09:19 by 和賀 URL 編集
No title
来生と云わずに🐝🦗🐗
2021/01/07 09:20 by 和賀 URL 編集
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2021/01/07 09:20 by 原田 URL 編集