2020/12/25
三篇 巻之十ニ 〈1〉 盛姫さま、浜御庭御入り
乙未の春王月(正月)に林が左小冊。首(はじめ)に記しておこう。
天保四巳年(1833年)八月三日に、盛姫君が浜御庭(浜離宮、将軍家鷹場)へ御入道の記だという。
わしはこれを読んで、その御文才が実に闊達で秀でておいでだと申し奉るのだ。
この姫君は、『千年山御伝略』を閲覧すると、文化八年()正月御誕生と云うと、この年十七で成らせ給う。
ますます恵敏(利口で反応がすばやい)の御質仰ぎ申す。
この前、文政二年卯十ニ月佐賀侯の世子へ許嫁され、おとずれる事その八年酉年冬、かの邸へ適された〈この年から、天保四年におよんで九年〉。
天保四巳年八月三日、盛姫君、浜御庭御入りの節、御道の記。
この度、浜の御園に参られると仰せがあった。
その折のこと、君の思し召しもあって、おん文庫のうち、いろいろの御品を下し給われたのをかしこみかしこみ(慎みと敬いながら)拝し見るのは、うれしさが限りなくあふれてくる。
深い御恵みの程は、浜の真砂のかずかずでもよみつくすことが出来ないだろう。
先の衣のいろ目に、抱えの帯は、世の常ではない彩錦、高麗唐土の機物にも勝っており、目にも彩なるものである。
続く
※
鍋島直正公も、11代将軍家斉の盛姫君も江戸生まれ。
この話では、盛姫17歳の時、お鷹場の今の浜離宮を訪ねられた時のストーリーです。
20歳で夫と共に佐賀に行かれますので、この物語の時は江戸にお住まいです。
まだ佐賀藩が財政的に厳しいとの話は耳に入ってない時期でして、天真爛漫な様子がうかがえます。
- 関連記事
-
- 三篇 巻之十ニ 〈1〉 盛姫君、浜御庭御入り その2
- 三篇 巻之十ニ 〈1〉 盛姫さま、浜御庭御入り
- 巻之六 〈41〉 辻切り
スポンサーサイト
コメント
No title
2021/01/07 08:45 by 木村 URL 編集
No title
2021/01/07 08:46 by 木村 URL 編集
No title
白老町のアイヌ博物館でシャケを囲炉裏の煙でいぶした物を『サチェップ』(手に入れるまで3年かかりました)と言って、売られていました。チェブと音声が似ていますね。
蝸牛考から云うと。昔、言葉は年速1キロでジワジワと広がっていましたので都で使われ始めた言葉は300年経つと300キロの処で、同心円状に広がっていたと考えます。だから長崎と鹿児島ではおらが国の方言と思い込んでいる共通の言葉が沢山あるのです。
九州ばかりでなく、他にも『いを』と云った場所があるかも知れませんね。
『いを』は都で使われ始めたのでしょうが、どうしてそう言い始めたのでしょうね。
ここから先はわかりませんが、意識の中に沈めて再びどこかで出会うのを待ってみようと思います。きっと答えは見つかると思います。
2021/01/07 08:47 by 原田 URL 編集
No title
2021/01/07 08:48 by 木村 URL 編集
No title
そこはまだまだ浅学のため、解らない事が沢山あります。
ただ、私はしつこさがあって、疑問に思った事は忘れませんね。先日も幼稚園の時に疑問に思った言葉を平戸で知る事が出来ました。〇〇説も心が納得すれば良しですし、しなかった時はしつこく疑問として心にしまっておきます。
都とは京都なのか。口承文芸の学会に出掛けたりして色々学んでいます。
2021/01/07 08:49 by 原田 URL 編集
No title
都の言葉が同心円状に広がるということは、国語の教科書の評論文で読みました。
中学生用に分かりやすく書いた文でした。
都とは近畿地方の奈良や京都を指しています。
そこで話されていた言葉が徐々に地方に広がって行く。この場合、単語が多いだろうと思います。
一方で、都の言葉も変化しますから、都から遠く離れたところに前の言葉が到達する頃には、都では別の言い方になっていて、そうなると、遠く離れたところに古い都の言葉が残っていることになる、というものでした。
「砂糖はなぜ甘いというか」
砂糖は甘いものですが、日本列島の端にいくと、砂糖をうまいという地域がある。
薬にも使われたくらい貴重品だった砂糖は、かつてはうまいものの代表で、都ではうまいと言っていた。
砂糖が地方に広がるのと同時に、うまいという言い方も広がっていったが、その後都では、砂糖は甘いと言うようになる。
現在、砂糖をうまいというのは、古い日本語の名残である、という主旨の文章でした。
私は岡山県出身ですが、岡山県南東部では玄関脇のちょっとした植え込みのことを「せんざい」と言います。古語の「前栽」が残っているのだと思います。
岡山でそう言うということは、京都を中心として等距離にある静岡あたりでも、同じように「せんざい」と言っているかもしれませんね。
話が逸れて失礼いたしましたm(_ _)m
2021/01/07 08:50 by 中田 URL 編集
No title
具体的にわかりやすくコメント頂きありがとうございます。江戸がいくら世界的大都市としても、スメラミコトのおわす場がミヤコですよね。歴代のスメラミコトのの御陵もまた崇敬の場でやはり言葉の発祥の地だったかと。日本人は古来言霊信仰を持っていたはずなので。
昔ばなしを始めた頃、鹿児島の民話に『いお』が出て来て、鹿児島方言だと思っていました。グループ鹿児島方言研究会に入れて頂き、方言の成り立ちをそこで学びました。ここで知り合った友達からの影響をかなり受けていますね。
また鹿児島や東北は戦後方言を使ったら、罰を受けた歴史がありますので、方言を守りたいという意識は強いと思います。金の卵が集団就職で馬鹿にされない様にと教師の親心だったらしいですが、母語を失う事があったんですね。今反動かなと思う位、鹿児島地方の方言熱は凄いです。長崎弁はそんな事ありませんもん。
私は鹿児島弁、多少出来ます。
2021/01/07 08:51 by 原田 URL 編集
No title
さかな、肴も復唱してみました。ピチピチしたイメージがわきませんでした😁
2021/01/08 12:33 by 原田 URL 編集
No title
2021/01/08 12:34 by 中島 URL 編集
鹿児島方言研究会(in 鹿児島方言文化協会)へ投稿
けふぞ釣り得しいほのかずかず
これは、甲子夜話という平戸藩藩主であられた松浦清静山公が書かれた随筆集にある一歌です。『いほ』という言葉が出てきますね。
どんな場面かといいますと、佐賀藩の名君鍋島直正公の正室盛姫君(将軍11代家斉公の姫君)が、まだ佐賀藩に入られる前、江戸におられるころ、年齢は17歳。将軍家の鷹場の浜御庭(現浜離宮)で初めて海を見て魚釣りをされました。君と臣の働きにより、釣ることが出来た沢山のいほ(魚)に感激しておられるのが、生き生きと描かれているのです。
鹿児島弁のいおが、古語からの名残りだといえる御歌です。
2021/01/08 12:36 by 原田 URL 編集