続編 巻之四 〈3〉

ある人が云った。
この夏笹山侯〈青山野州、閣老〉は使命を奉じて京に赴任される時、かの方より恩来がある事は知られる所。
さて日頃聞くに、かの地を出られる前に院御所へ罷出られた時に、女房を伴い内々の御沙汰があったのは、天明中内裏炎上の砌、所司代は在京してなかった。
ことに御手薄な時節の所を折ふし侯は在京になっていたので、笹山より早馬で越された。
鳳輦〈天子の乗る車〉を守護して事なく御立退あったのを今に忘れさせ給わず。
その後所司代職をも勤められ、この度また奉使の為西に上がられた。
これは御馴染みの人だと思し召される御噂の由であると。
この様に綸言〈天子の意〉を内々ながらも蒙られるのは、何とも模範なることである。

  附けて言う。天明災のときは亀山よりも
  松平紀伊の守が乗り付けた。里程近い為に 
  、亀山侯は夕七時頃到着した。笹山は夜五  
  頃箸至とのこと。
  それゆえ亀山はゆるりと供奉の手当も出来             
  たが、笹山は到着直後に御立退となられた 
  間、万事不調となったと云う。
  これは道の遠近は仕方のないところだけれ
  ども、亀山は早き死を以てその功績湮滅し  
  た。
  笹山は老に至り顕位に在ると、この様な手
  本にも逢う。寿夭修短は天命といえども、
  また幸不幸の異あるものである。
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コメント

No title

この記事も深く読み込まなければわからないように思うが、先ずは笹山と亀山の位置関係。丹波亀山=現・亀岡、丹波笹山=現・丹波篠山、と思うので、京御所までの距離は倍半分で亀山が近い。この間の福島沖の地震でも首相が官邸に住んでいなくてよいか?などが問題になった。天明の大火は1788年1月に京都の市街が御所も含めて8割が焼失したといわれる大火災。この復興にあたって、古式の建物を忠実に再建しようとする(裏松固禅の『大内裏図考證』)の考え方と、天明の大飢饉で財政難の江戸幕府老中の松平定信が示した考え方が対立したという。古式で復元された古都が今ある事を思うと、これらの歴史も学ぶことは大きいと思いました。ただ、ここでの文の主体は人間の人生観でしょうか? 亀山の早き死はあまり惜しまれているようではないのには何か理由もあるのかもしれないですね。

当時京都火消し役であった丹波亀山藩のその時の活動記録が克明に残されていました。
http://r-dmuch.jp/jp/results/disaster/dl_files/14go/14_7.pdf

当時の丹波篠山藩は青山忠裕(ただひろ)が兄の急逝で17・8歳の若さで家督を継ぎ、寺社奉行、若年寄、大坂城代、京都所司代と、およそ幕閣の登竜門とされる役職を残らず務め、文化元年(1804年)に老中に起用されて30年以上勤めるなど、文化文政期の幕閣の中心人物として活躍した。篠山藩も在職期間が約50年と長かったそうです。

一方の亀山藩ですが、ここはこの火災の40年ほど前までは青山氏が50年ほどこちらの藩を治めていたが、篠山に移封されたという。この火災のときは、松平信道が治めており、京都火災の火消しに活躍したが、その3年半後の1791年に30歳で亡くなっています。確かに2人の人生を比べると何処か感無量な思いがします。
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