巻之70 〔3〕  耶蘇天誅記より

 『耶蘇天誅記』〔30巻〕を読む中に,
心に留まる条23をうつす。

 1云。按ずるに、天文、弘治、永禄、元亀、天正、文禄、慶長の年間、凡そ70有余年の暦数、西国より畿内に至る諸国では、押しなべて耶蘇宗が流行ったと云う。
就中(なかんづく)天正の末年より慶長の初年に甚だしく繁盛したと思われる。 
 その頃西国では、諸家の大身、かの宗門に拘泥する面々、逐一算する遑(いとま)はない。
畿内では三好修理大夫長慶、松永弾正少弼久秀、長岡越中守藤孝、高山飛騨守友煕、同右近将監友祥、小西摂津守行長、宇喜田宰相秀家、津田長門守国定、その外歴々の面々がこの宗門を尊信されたと見える。

  【某云】藤孝は細川幽斉である。世の多くは松永、小西等が
      邪宗であることは知られるが、玄旨法院のことを知
      らず。何にしても後に改宗したと。小西は法を守っ
      自ら縛を受けたは笑うべし。

 1云。寛永7庚午(1630)年、肥前嶋原の城主、松倉豊後守重政は、関東へ言上があると、累年切支丹宗門稠(おお)く御禁制だといえども、未だ一統に断絶ならぬ儀は、偏に呂宋(ルソン)国から年々商船の便りを求めて、邪宗の導師が渡来する故である。呂宋国をやたらに征伐するならば、自ら日本国の邪宗門を断絶すべきかと。 

 逋(アッパレ)出陣の御免を蒙るならば、手勢を以てかの国を征伐いたす由。
然し兎角の御沙汰なく、しばらく過ぎた頃に同年11月16日重病にて卒去した。
よってそのことは終わった。

 これより先、私として呂宋国見分の為に、松倉の家士吉岡九左衛門、天野千右衛門の2人が呂宋国に渡り、かの地の様子をつまびらかにして、程経て帰国すると云うが、重政が没した間、その話はなかった。 
 
  【某云】これは嶋津氏の琉国を討随えた類である。但しその
      ことの遂げずは遺憾である。しばらく御免の沙汰が
      なかったは故ありか。

1云。寛永年中、切支丹の男女を国々より搦めとり江戸へ引いて来て、品川鈴ヶ森の浪打際に活きながら逆さまに釣って、潮が満ち来る時は自ら頭を波に浸して、暫くして息絶え、また汐が干く時は自ら甦ることもある。
これは仏教の所謂倒懸(非常な苦しみの例え)に等しい。

1云。寛永年中、江戸で乞食が100人余り切支丹宗門たるに依り、浅草鳥越の辺りに虎落(モガリ)を結んで、その中に追い込み置き、食事を与えず飢殺しにして、直にその土地を掘って埋められたという。

  【某云】この2条は聞かない珍説である。邪法の徒をこの様な
      惨酷な刑に処せられるは、人々に懲り懲りにさす為
      であろう。
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