続篇 巻之八十ニ 〈一二〉 『武家事紀』『耶蘇天誅記』

武家事紀』に、志津ヶ嶽合戦〈秀吉、勝家との戦いである〉のときに、坂口上の要害に高山右近、海山の要害に中川清秀〈今の中川侯の祖〉に守らせた。

天正十一年四月廿日、佐久間玄蕃充政盛は、大軍を卒して江州柳瀬より中入りして、封じ切りを致したとき、一番に海山の要害に押し寄せて、夜のあけぼのに軍勢の形粧がきこえた。

折節、清秀は馬のすそを冷やして、髪もまど結っていない。その中に高山が来て云うには、「柴田の軍勢は、ただ今押し寄った模様。然らば海山の要害は甚だ浅間である。高山の坂口の要害の一所につぼみ然るべきだろう」と云った。

清秀はすぐにすそを致しかけた馬に裸背で、うち乗り、海山の要害四方を巡検した。帰って云うには、未だ屏の手も合わないので、これを勢いよくはしり、坂口にいたらないのは然るべきでない。

その上面々の受け取りは。高山は坂口に、清秀は海山で最必死になるようにとのことで、高山を返した。

その内に政盛の先手が四方より押し入り、根小屋を焼いた。清秀は兵を卒して突き出ていき、戦死した。高山は坂口の要害を出て、大元(本部)に退いた。秀吉は、清秀の死を忠義の死と感じ入ったようだ。

わしはこの頃の合戦は殊に不案内なので、云い分は食い違うだろうが、以上の文を検分してみたい。中川は義勇、高山は潔くない。高山氏がかつて南蛮宗であったことは前にも触れたが、家紋に今でいう十字架を用いていた。

これはさて置き、高山が専ら南蛮宗であることは、諸書に伺える。南蛮宗は自らの死を嫌い、人手によって死することを旨とする。

関ケ原の後、石田、高山、小西の成果を見ればわかるだろう。中川、高山は共に南蛮宗だが、中川は義勇、高山は然らず。

清秀は、かの宗法に違える所であるが、忠勇の執る所にて、上天感応して今に逮んで歴々たる諸侯の中にある者はもっともなるか。

また高山の成り行きは『武家事紀』にある。「高山右近は、南坊を号され、後前田利家に仕えた。南蛮耶蘇の邪法を堅く守り、慶長十九年三月に内藤飛騨守と同じ船で、南蛮国に到った亅。

この年は台廟将軍と成られ給いた後、大阪が落城する前年なのだ。

『耶蘇天誅記』に云う。慶長十九年〈申寅〉九月廿四日、摂津国高槻の城主高山右近友祥は兼ねて切支丹宗旨に拘泥し、親類縁者種々異見を加えるが許容せず、終に台名に戻り、今日南蛮国のうちジャガタラへ追放された。

内藤飛騨守もかの宗門を信じて、上意に背いた間、同じ罪に処せられマカオへ追放された。また長崎辺りの伴天連徒党の輩からも百余人、一同に長崎の湊より船に乗せ、今日マカオへ追放とのこと。

〈これについて、一話が残る。

長崎は初め専ら南蛮人の商いの港であり、今の阿蘭陀人の商館は以前は南蛮人が建築した。今の出島も、その時の有り様を伝えよと云う。

またその頃来津した南蛮の中に少年がいて、こう云ったという。『僕は日本人だよ』。けれど衣服はすみずみまで南蛮製であり、言葉もみな南蛮辞である。

だからそれを信じる人はいなかった。南蛮少年はある時、護り刀と我が国の文字の書を出した。人はこれを視ると、高山右近がかの国へ渡った後、我が国に遺した幼児がいて、乳母が窃(ひそ)かに長崎へ伴い、かの国人に託した。そうしてそこで成長した幼児が故郷に再び帰ってきたのだということ。

この頃は禁令もゆるくなったか。

少年は長崎に留まり、蛮医(外科)を学び術を得た。これを暮らしの糧とした。

名前は栗崎道意と称する。これよりこの治療が広まり、今の南蛮流と呼ぶ外科述は、この道意の流れであると云う。

今、西城の御医栗崎道枢と称する等、もしかしたら医孫なるか〉。
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コメント

No title

佐久間正盛は勇猛果敢で柴田氏の反対を押切り中入りをして、中河清秀を滅ぼすも、その後の羽柴勢大軍の追撃を降りきれずに討ち死にして、柴田氏滅亡の印を作った武将🐝ですね 

No title

次は、栗崎道意の孫の話です。
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