続篇 巻之八十ニ 〈一三〉 赤穂義士夜討ちの前年の話し

前に記した、南蛮へ追放した高山右近の子の栗崎道意の孫も長崎に住んでいたが、元禄中にある夜中この親のもとに人が来た。怪我人が数輩。治療を給わりたいと云う。

折ふし親は出ていて、十歳ばかりの孫が迎えの者について赴いた。西浜町長久橋の上に附した怪我人を見ると、一人ならず深手の者がいる。いちいち切傷治療の法を用い(治療を終えて)帰った。親も帰っていて、その由を物語れば、始末の一つ一つに行き届いているので、親も賞美し、余人も十歳の手並みには珍しいとほめた。

この怪我人が出た訳はこんなことであるー。

その頃御代官高木氏の本家彦右衛門は、御用物方を勤めて富潤い、家僕も多く仕い、ますます豪奢に及んだ。

ある日その新生児を産神へ参詣させる中、佐賀の家臣鍋島某の家来が用事があって、主の住所、深堀より市中に出たが、これと行き合った。雨後のこと、彦右の僕へ泥土を跳ねてしまった。

僕等は、無礼であるぞ!と云うので、鍋島の家来は過ちを謝するが、聞き入れず遂に打ち、投げるに事が及んでしまった。

(鍋島の)家来は忍んで帰った。が、深堀から その輩廿余人を党して、舟路に回り夜中、高木の宅西浜町に到り、押し入り、家内くまなく切害(殺害)した。

その近所の橋に引き取る中、手負いの者の治療を乞うたというのだ。

これよりその党はみな深堀へ帰り、この意趣を述べ終わるとことごとく腹切りて死した。今は深堀の寺内にこの数輩の墳墓が並び立ち、江戸泉岳寺にある義士の墓に似ているとのこと。

また云い伝えるー。

この年は赤穂義士夜討ちの前年であり、義士の輩はこの事を伝聞して、胸中密かに復讐の事を促したのではないか。長崎の所伝、この様だと云う。

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コメント

No title

昔の武士は過ちを謝罪して後、なお恥辱を与える相手に対して、死を覚悟の上で遺恨を晴らしたのですね🐝
今なら理由は何であれ、留置場へ行けば、かたをつけた人は多く見られると…(・・)
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