巻之24 〔7〕  たぐいもなき楽意なこと

 過ぎし寛政8年(1796)の夏、下国の道中州小郡駅の西たかねという処で休みをとった。
農家で染工を兼ねた家だが、今日は某の田植えなので祝奉ると、三方に稲苗を敷いて持ち出した。
わしも悦び入り取り収めたが、どうにもならない。

 だが人の心ならば、少しでも持ちこして領内(現長崎県北部辺り)に植えさせるように申し付けた。
器に少し植えて、日を経てから領の入り口早岐(現長崎県佐世保市早岐町、但し早岐旧大村藩)と云う所まで持っていき、所の郡代にしかじかの旨を依頼した。

 その秋長崎へ行こうと早岐に宿どまりをした。
郡代が稲3穂を持ってきて云うには、「この夏命じられた苗を植えましたが、茎がいたんでいましたが、ようやく新芽が出ました。纔(わずか)にこの様な実りがございました。この稲の名もわかっておりません。中早田もので、善悪と呼ぶ稲に似ていますが、御領はこの種は古くからあります。実るかどうかはっきりするまで、様子を見ようと思います」。
また善悪とは宜しくない名なので、今より善作と呼んではどうかと申し付けた。

 後年東観が終わって、下国入城したとき、勘定奉行が申し出て、「先年早岐へ命じられた稲は追々作っていたようですが、穂のでき方は至って宜しく、この秋は籾18石でき、その中から少々御年貢米にもいたします」。

 この籾は、処々の田地や水の少ない所に植えると宜しき事、郡代どもがそろってそう申す。
籾を望む所々の者に分けて、種子にせよと命じた。

 その頃平戸の郡代から聞いた。
「この嶋中の方々からも、この種で作りたいと願う者が多くなりましたよ。また近頃(文政6年、1823)早岐の吏が江都に出たところ(稲のことを)問われ答えたそうですよ。『早岐の辺りの田方は7分通りはみなこの種で以て作り、米も至って善いものです。先年静山公が旅先から携えてきた種と人々が申し伝えておりますよ』」。

 思いもよらぬことで、このような事が耳に入るのは、たぐいもなき楽意あることである。
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