続篇巻十六 六 上総屋今助

江戸の銀主(ぎんしゅ、金持ち)の中でも、上総屋今助はよく知られている。

わしも以前から聞く名である。

この男はかつて劇場で瀬川菊之丞と云う役者の衣装番をしていたが、だんだん出世して、金貸しになった。

また水府(水戸公)の御用をしている内に大久保今助と呼ばれるようになり、駕(かご)に乗り、槍箱を持ち、水戸侯より賜わった葵御門の時服(天皇、将軍より賜った服)を着るほどである。

わしはまだ今助に会った事はないが、傲慢な男なのかと思っていたら、肥州の者(肥州は今の肥前肥後の事、文面から肥州出身で松浦静山と今助を懇意にしている)に話を聞くと既に年齢は70を越し、歩き方はのんびりしているが、豪気な性格であるという。

だから1度会ってみたいと思い、わしを訪ねる様に云うと、では品川の静山さまをたずねるよう申しましょう、うかがう日時は後でお知らせいたしますと応えた。

今助は喜んで、(わし、静山がいる品川の)鮫津にやって来た。

世間のうわさほどにもなく、ただの平凡な老人だった。

(別の)銀主が云うには、今助はかつて虎の門の内藤侯の草履取りをしていて気働きをして出世していった。

また(内藤侯邸をやめてからも) 今助は年頭には必ず挨拶に侯邸に来た。

元日の登城のとき、自分が乗ってきた駕、鎗等は侯邸の門外にのこし置いて、かの(葵の)時服を脱ぎ隠した。

これは侯の草履取りをしていた日々の様に今でも内藤候の家来であるという気持ちを持ち続けていますよと表明しているのだ。

これを聞いて想い出すのは、わしの処で庄次郎と呼んだ駕かきの事である。

後に我が屋敷に召抱え、帯刀を許して勤めさせた。

そんな庄次郎だが何と今助はかつて庄次郎の子分であったのだ。

庄次郎は出世した。今助も富を持った。

庄次郎は年を取り、死を迎えた時に今助は「我は(庄次郎の昔からの)子分であります」と云って、庄次郎の小屋に3日間泊まった。

そして自分の財で葬送を出し、(葬式が)終わるとすぐに去って行った。

今助の行動は昔仕えた者を今でも昔と変わらず大切な主人だと思っている、という事だった。

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