2021/10/02
続篇 巻之4 〔4〕 雪舟渡唐富士の図
谷文晁の話に、今細川家(隈本)秘蔵の雪舟渡唐富士の幅は妙心寺の什物である。三斎の時妙心寺の住職に乞い借りて江戸に至り、茶席に掛けて愛賞していた。
が装潢(そうこう)があまりに麤末(そまつ)だと佐久間将監に頼んで、好きな装潢に替えられた。
また帰国の時上方へ持っていかれ、しばらく国元にて借りたいと云って持ち去った。
また翌年東覲の時もそのように、ことわっては江戸に持参された。
年月を送る内にいつか細川家の物となったと云う。
またその図は、清見寺の山を前に画いたものである。
雪舟が唐国にあって、うっかり寺山列樹の間に塔を描いた。
帰って清見寺を過ぎると塔はない。
雪舟は嘆いて、「我は唐人を欺くつもりはなくして、ふと描いたが、今見ると虚誕(でたらめ)になってしまったので、寺から18町ほど阻たる所に、新たに塔を建てた。その方角で恰(あたか)も画いた地位によく叶えり。」
それなのに、寺の境内でもない所の塔なので、誰も守る者もなく、遂には乞食の住家となったが、1日失火して灰燼(はいじん)となった。
天明中(1781~1789)の事だからか、あり得るのだろう。
古人の物に厚きことを感ずるに余りあり(林語)。
この言にて思い出すのは、先年享和壬戌(1802)夏、狩野養川院の粉本を見たことが有る。
時に模写して置いた。
取り出して見ると、上包みに、雪舟渡唐富士と記して、内に、この本細川越中守殿所持としるしてある。
正しく上の真である。
因みにここに附す。(写真参照のこと)。

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