三篇 巻之15 〔3〕 古仏像を老女よりたまわる

 わし年30歳ばかりの頃、平戸の城にいた中、かの地の老女某はその家に以前から伝えた仏像があった。
そのはじめは京で某氏から与えられたものだった。
即ちこれをわしに上(たてまつ)るべきだと云う。
わしはかの家伝の物ならば、辞して受けないつもりであったが、再三これをすすめるので、収めて愛崇した。

 近頃ふと思い出しては、ここにその像を描いた。
像の大きさは大抵図の大きさである。
素は金彩を施したものと見えて、はく落して大体を露わしている。
それなのに、その金の純色は最も古光を残す。
木もまた蠧蝕(きくいむしに蝕まれた)して、すこぶる仏姿を破損している。

 またかの仏像を得た時、小記を添えた。云う。
     鳥の作。阿弥陀仏の化鳥である。

 嵯峨天皇の御願に応じて、仏が鳥と化して、この仏像を作りたもう。
即ち嵯峨清凉寺晴霞堂の御光仏である。
虫くいを明らかにする。
この尊は、台徳院様から安藤丹波守殿へ下され、御袋照智殿から伝来した(安藤丹波守は、『藩翰譜』を調べると、右京進重長の二氏、重好である。
『武鑑』重広に作った。御袋は、母を表す俗称)。(重長は、今の安藤侯の祖)

 『都名所図会』に云う。五台山清凉寺の阿弥陀仏堂は、棲霞寺と号する。
嵯峨帝の皇子融の大臣の営まれる棲霞観である(源順賦を書された)。
本尊は、阿弥陀観音勢至の三尊である。
旧嵯峨帝が離宮に在の時に、化人が来てこれを彫刻した。
造り終わって、酉の刻に去った。
この故に化人を酉と号した。

 上前記と異同があっても、その旨は通じる。
また嵯峨の崩ずる『皇朝史略』によると、承和9年(壬戌、842)である。
それなのに、今を隔たること(天保6年、乙未、1835)994年、最も古物と為すべきであろう。

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