三篇  巻之15  〔6〕勢州の城の地形によって日の出の時刻が異なる

 
 藤堂候は、伊勢国であるが、伊賀もまた領されている。

 また侯の世臣の吉田六左衛門と称して大坂陣以来の名家があった。この家は昔より伝えて軍射の術があった。わしも久しく信仰している。

 さてこの頃、計らずも六左衛門が出府して時々面会し、且つ学んだことがある。ある日の話に、伊賀国の四辺は山囲いで、侯の城地〔これは勢州にて侯の居城とは外である〕は、その中にあった。世に謂うすり鉢の底の様な形勢である。

 わしは「ならば城地は不要害にならないか」と問うた。(六左衛門は)「いいえ。かの繞(めぐ)れる山は、余程隔たっていています。城のある処はまた底に一山あって、その高い処にあるのですよ。だから要害に障りはないのです」と云うた。

 また「この様に回周山であれば、暁の後日光が現れるのは遅くてですね、夜が明けるのも他に比すれば、蚤(はや)くはないですね」と続けた。

  因って勢州を発する者は、日の出以前に行くので、伊州の到っても、未だ日光の挿しこむ前であると。国々の空模様はこの如く殊(こと)なる。

  まずは知ったことである。
 
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巻之8  〔13〕川流句、川流のはなし

 
 川流(せんりゅう)句は毎に感じ入るが、ある人がまたこれを云った。
  
   湯屋の喧嘩の片手あつかひ
 
 わしはつらつら吟じて且つ考えてみると、この句は恐らく川流ではない。条理をなさずしてまた短句ならば、思うに世の俗調なる俳句を、誤って川流としたのだろう。条理をなさずと云うわけは、この片手と謂うは、入湯の者は裸体人前を憚れば、各片手で陰処を掩(おお)う。
 
 つまり口論より憤闘に及んでも、ただ空手を以て打擲(ちょうちゃく、ぶつこと、なぐること)に至り、片手なお放さずと云うのだ。わしは「こうして憤闘に及ぶ族(やか)ら、ここぞのこの時に陰処を掩う底の容であろう」と云った。

 ならば固より忿怒(ふんぬ)ではない。故にわしは取らなかったが、後ある日湯屋の戸前を過ぎると、屋内憤闘の体であった。興中よりこれを見るに視えず。すなわち人を使って視せにいかせると、果たしてわしの説の如しであった。すると素より人事自然の妙句ではない。これを取らざる所以である。人よ、能くこれを惟(おも)え。因って云う。川句の採るべき者は、
  
    角(ツノ)大師湯番を叱る御姿

  これは、大師の下「は」字を加え、湯番の上「凡俗湯入者の(凡俗湯に入る者の)」六字を冠(かぶ)せて解すべし。角大師とは元三大師の降魔せられたときの姿であり、上野よりその御影が出て、専ら世に布(し)く。その下は入湯の者はかの戸の湯番を叱る状態、かの角大師の体に類する。裸体の怒る形さも比すべし。如々(いかん)、何何(いかん)。

三篇  巻之1  〔11〕妖に遭うた人達の言葉

 
 ある日金三郎の宅を訪ねた。

 金弥も来ていて、相共に話すうち、金三が「同勤の御小納戸は今は退役していて寄合の飯室兵庫と云うが、嘗て御休息とか御厠に往ったが、月が殊に明るく御障子に影差し、快く天(ソラ)が晴れわたり面白い景色だと思ううち、不図省(おも)ってみれば今夜は晦日であったとか。いつか吾は妖物の為に惑わされたことがあったと思えば、頻りに恐ろしくなってようやく部舎(ヘヤ)へ逃げ帰ったそうです。またある夜宿番にて臥睡していると、これも不図目覚めて視ると、己の臥裯(ネドコ)のままいて天井と近づいていたそうです。如何にと驚いたらそのままはじめの臥処(フシド)に臥していたそうです。これも何か狐狸の誑(たぶら)かすものでしょうか」と金三が云った。

 「某等御書院番の詰めている虎の間の次は闇(クラ)がりの間と云いいますが、宿番の組頭はこの間に臥(ネル)こと定格ですが、ここに臥睡すればいつもそのまま天井に近づきます。そして驚いて視ればやはりはじめの臥場(ネトコ)なのですね。この様に今は定法の所には臥(ネ)ずに部舎(ヘヤ)の中にて宿番をなすそうですよと金弥が云った。すると広い御間中、前条と処は違えても怪事は同類の所為であろう。

 またわしが領内の津吉と云う処に、文益と云う軽い者が母といる。ある闇夜のことになるが、向うより三間ばかりの光明が朧月のように響きがあって漸々と近づいてくる。母子は不審に思う中近づくのを視ると、光の中に一物あって猫のように白い。家に上がろうとするのを母はこれを叱った。怪は即ち去るにも再び響きがあった。人は「白い獣は全く古狸でしょうね」と云った。

 すると飯室氏の驚いた暗夜の晴月は、大城も久しい所なので古狸も所為であり、西東逈遼(けいりょう、はるかに遠いの意)も違いはなかったのだ。 

巻之94  〔4〕承応元年以来の御切米、御借米年代記

 林子の文通に一摺(ひとすり)の紙をおくってきた。「これは卑劣なものであるが、また歴代の転移を観るに足りる」と曰く。

 すなわちここに模写した。
 
 (一摺の紙の)上紙の板面にこのように書いてあった
〚 承応元年(1652年)以来御切米並御借米
 御張紙直段米金割合年代記〛

 
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 巻之49  〔31〕天守御櫓のはなし

 この頃大城御天守の図とて示す者があった。御天守は今は無いが、図に由て見ると、その壮観は覚えておきたい。

 わしはある人に「これは一城郭であるが、この中に水があれば尚堅固であろうな」と問うた。
 
 その人は「大阪の御天守も、以前天火の為に燃えて今はありません。つまりこの御天守の中に井戸がありました。黄金水と申しました。常にこれを汲むことを禁じて、夏土用の中三日のみ免(ゆる)しておりました。それで御城代の家臣、その余、奴僕に至るまでこれを汲むと、その清潔な氷の如く名水でありました。また井戸の深いこと数仭(じん)、俗に伝わるのは、井中のかわ金を以て造ると。因って水性の美をなし、且つ黄金水と呼ぶそうですよ。豊公の勢いを以てすれば、この様なこともあるでしょう。また天守の内にはこうした水のあることは尤もなることです。然し地の利は人の和に及びませんけれど」と云った。格言である。
 
 追記する。

 ある人曰く。この天守中の井戸は、既に石山城本願寺の二世顕如上人の時、上人が堀ったものであるとぞ。この上人も猛勢なることは人の知る所ゆえ、太閤が堀ったことにも劣らない。

 また曰く。江城の御天守にも御井戸がある。且つ清泉であるとぞ。今に御天守番の人で時々汲んで還る者があると云う。
 
 また天守を以前は天主と書いて、櫓の上層に天帝を祭っていたとぞ。ところが上杉謙信は天主の称を悪(にく)み、これを改めて天守とし、須弥の天守は毘沙門であるとて、この神を祭ることで、今はみな天守と書くと。

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