続篇  巻之3  〔5〕真鍮銅壺

 わしの荘の近辺吉田町と云うのは、商売婦を抱え置く者の住所である。

 この売婦を買う者が時々煙管を忘れたり、道に落としたりしていた。

 売婦がそれらを拾って帰れば、その主人の某は受け取って、女には駄賃を与え、集めた。集めた物が山をなしたとき、鎔かして大銅壺を形成して、己の厨房で用いた。

 これより某を目して真鍮銅壺と呼ばれるようになったと。

巻之70  〔30〕 越中国の蟒蛇(うわばみ)

 邸内の僕に越中国の少年があって語ってくれたと小臣から報告があった。
 
 こんな話である。〔方言が聞き取りづらくあるがただ聞くままに録した〕。
 
 越中に白(しら)かい銀山駒ケ嶽並びにおすもん山があった。

 この両山には大きな谷があって渓間が沢山あった。

 その麓に大白川、また平瀬と云う里があった。

 その里人はみな猟師で、日々山中に入って、猿や鹿を獲て生業としていた。

 それなのに時として山中で鹿や猿を乏しくなって獲れないときがあった。

 このとき猟師は「山中に蟒蛇がある。谷間渓水の岸辺の石をみると、果たして巌穴の内に蟒蛇が居る〔猿や鹿は蟒蛇に食いつくされいなくなったか。または蟒蛇を恐れて逃げたか〕。
 
 これを見ると引き連れて行く犬の食物を穴の中へ投ずると、もし蟒蛇が穴内に居ると穴には入って行かない。

 蛇がいないときは入っていく。

 中でも牝犬は蛇がいるかいないかに敏感であった。

 猟師がこれを知ると、巌前に集まっては、棚を高く構え、上に数人登り、穴口には木を打ち付け壁を建てた。

 それより篝火を多く設け、蕃椒(とうがらし)を炉の火に加え窟中に投げ入れた。

 この煙を数人が扇ぎ籠めると、蟒蛇はその毒煙に咽び、穴の底より逃げ出そうとした。

 蟒蛇が動くとき風音のような音がする。

 すると棚上の猟師は、あらかじめ設けた鎗、薙刀を執って待ったいた。

 蟒蛇が壁をを破ろうとするのを、群槍で蟒蛇の頭を刺した。
 
 蟒蛇は尚ひるまず、首はすでに壁を出ようとしていたが、薙刀を持っていた者達が頭を切り離した。

 若し蟒蛇の頭を切り離さなかったらば、蟒蛇の尾が人を払い倒して勢いよく震電の如く、人みな傷を得ていただろう。因って安全を考えてこのようにしたのだと云う。

 また曰く。蟒蛇は1年に1度、或は3年に1度この山に棲んでいたという。

 またこの蛇を1年に両度(2度)捕る事もあったという。
 
 かの僕は蟒蛇を1度目にしたと云う。

 頭は平たく大きくて、蛇とは違う形状をしていて、耳があり極小さいと。その長けは長く、胴囲は3尺になろうか。これでも蟒蛇の小さいものであったとぞ。

 また曰く。この肉は食すべし。

 僕はこれを食し美味にて言うこと無し、と。

 但しそれは3年味噌漬けにしたものを食すこと。

 1年を経たものは未だ毒が抜けておらず、逆上(頭に血があがって取り乱すこと)を患すと。
   
 
 良安が『三才図』、『本綱』を引いて云う。
 
 巨蟒は安南雲南の諸処に生す。

(虫冉、トカゲか?)蛇の類にして四足のものである。黄の鱗と黒の鱗の二色が有る。

能く(鹿の比の部分に米、老いたの意)鹿を食す。

春冬は山に居て、夏秋は水に居る。能く人を傷す。土人殺してこれを食す。

○また按に(調べると)、(虫冉)蛇は本朝の深山の中に有り。

その頭は大に円扁(ひらたい)。

眼は大光あり。背は灰黒色。腹は黄白。舌は深紅なり。

その耳は小にして僅かに二寸許り、形鼠の耳の如く。然るに(虫冉)蛇に耳の有無を謂わず者は、審ならず。

○『説文』に(虫冉)は大蛇食べしと。是ら見合すべし。

三篇  巻之5  〔4〕白蛇が天にのぼるはなし他

 ある日九鬼の長州隠荘を訪ね、物語る中に、楽翁が先年尾州の駅舎〔これは思うに京都上使のときだろう〕憩われたとき、かの舎の縁先の手水鉢の処を見ると、白い小さな蛇が直立していた。

 楽翁は怪しく思われ柄杓の水を2杯かけたが蛇は動じない。

 楽翁はそのままにて置かれ、やがてそこを去ったが、途中半道も往かれると、大雨が盆をこぼした様に雷電風が起こるなどした。暫くして晴天に帰した。

 この様な時は先の白蛇は、正に竜にして遂に上天したものだろう。

 ○また語る。某が在所三田の居所は、随分庭も広く、その中に水溜め桶の殊に大きい物があった。

 年数が経ったそれは古くなり朽ちて半ば腐れていた。

 ある日某が在江都留守の子どもや女が庭の中を望んでいると、その桶の水中に小白蛇らしきものが見えるが、水を離れ空中にのぼった。

 折しも晴天にして風もなく、その物はますます昇って、後は虚(くう)を凌いで覩(み)えなくなっていった。

 竜にてもあったのか。

 前後に聊か風雨鳴電のこおともなかった。また怪しきことだと話した。

 ○また語る。同寮の堀田豊州が話した。

 何れかの処にか〔わしは何処か忘れた〕、海上にて釣をしていた舟の上が、ふと水上を離れ上に升(のぼ)った。

 人々は怪しく思う中、次第に上り、終には中天に到った。

 乗って居る舟の人は恙なくいたが、生きた心地も無く、巨浪怒濤の艱難なので、死を期する思いもあったろう。

 徒(いたずら)に空に乗じていると、自ら死もやらず、茫然として後に何が起こるのか見ていると、良久(しばらく)して舟は次第に下り、ついにもとの海潮に舟は浮かんだ。

 皆はここで初めて安心して、櫓をこいで急ぎ岸辺に着いたと。

 これは如何なる変事か。若しくは竜巻の気に惹(ひ)かれて起こったか。

 この時四空に竜巻があったともいえず。晴天で起こったこととぞ。

  ○また語る。山州淀川には大きな鯉がいて、3尺を越えていたのを何とかと呼んでいたが呼び方を忘れた。

 また当君様には、常にお好みになっていて大鯉の肉を供じた。

 ある時淀川の漁師が、3尺に尚余れる巨魚を獲た。

 この漁師、朝官に上(たてまつ)れば定めし高価の給わりものであろうと思った。

 逡巡する中、果たして膳司が聞いてその巨鱗を奉らせようとした。

 時に忽ち行脚の僧が来るのがあって、かの漁師に「我に魚を与えよ。朝廷より給わる価格に一倍上乗せして汝に授けよう」と云った。

 漁師は素より価格が上がるならば、即僧に魚を渡しその場を去った。

 僧は迺この魚を河水に投じ、放して還った。ところがこの僧は発熱して、煩悶痛苦のうわ言を云った。

 「こう言うは淀川に久しく住む巨鯉である。我は求め難き幸を得て、すでに主上の御体に入ろうとしていた。因って潜沈するその身を現して漁師の手に飛び込んだのだ。すると汝という匹夫、僧業とは謂えども、我を救って還って我が福(主上に我身を食していただくこと)を失ってしまった。我は甚だこれを怨んでいる。故に汝に依ってこの恨を報いんとす」。

 傍の人がこれを聞いて、半ば驚き半ば訝った。これより後は如何なったか、坐客1人ならず、献酬の声が囂喧(けんけん、やかましい)して、わしもその后事は聞かず、別宴した。

三篇  巻之68  〔12〕箕田八幡宮祭礼

 この8月14日(庚子、天保11年、1840年か)には、官医永琢が平戸より帰省すると聞いたので、数日の労を謝しようと、品川へ赴く中、緑山の宿坊に憩うと、告る者があった。

 「明日は箕田(みた)八幡宮の祭礼にして、当年は18年歴(ぶり)とか20年とか、久々のことにて、別して緒人群集しているので、途中の坊は立て込んでいるだろう」と聞こえてきた。
 
 急ぎ、増上山内の鑿通(きりどお)しを通り、箕田へかかると、如何にも混雑していて、弦鼓の祭俗があって、男女が湧いたようであった。

  されども無難に通り抜け、品川へ着いた。

 以前、宿坊雲晴院が話したことを思い出して(わしは)云った。

 「この箕田の祭りには、嘗て神祖(家康公)の御軍陣の御旗を、八幡宮へ御寄進あって、祭礼の日には、今もその御旗を出すということだ」と。

 わしは院主に問うた。「さらば今日の通行、若し御旗を望むならば下乗(げじょう、乗っている物から降りること)すべきではなかろうか」。

 院主曰く。「これが出るのは、明くる十五の御正月です。今日ではありません」。

 わしは途中の畏れもないと聞き、やっと心が安んじた。
 

 偖(さて)、この御旗と云うのは、かねてより聞いている。

 総白無紋にして、清和源氏の御旗とかであると。

 またこの御祭の日は、いつも3本を出し、また3本と合わせて6本と云う。

 雲晴は云う。「3本は御扣(おひかえ)なのでしょうか、如何にも白き御旗と聞くと」。

 わしも「嘗て西城御幼齢の御時に、5月御城内に立てられた御旗が御城内より瞻(み)えるので如何にも総白の御昇旗にして、吹き流しの小旗までも総白であった。還って葵紋の御昇旗は、それとは別に連ねて立てられたのだろうな。また嘗て久昌夫人(静山公の御祖母殿)が物語られたが、昔御軍の中、御味方なる金森氏は、清和源氏にて白旗、神君(家康公)も同じく御白旗だった。それで敵軍は見間違ったそうだ」と。

 わしはこの頃、軍講者宗耕に問うたが、「これは正しくは、関ヶ原合戦のときにて、大垣城の敵兵が、金森氏の旗を望み見て、神君の御着陣かと驚いた。

 程なく御着陣あって、その御勢に敗れたりと」とのこと。また曰く。「この金森氏の旗とは、総白の吹き貫けにして、50本であったと。官のは御昇旗で、ともに純白の斉(ひと)しきを、こう言うのだな」。
 
 また云う。箕田八幡祭礼の日は、前日はそうではないが、15日には、楼上の客はみな居ることを禁じた。楼下の店前の者も、渾(すべ)てその御旗を望めば、下坐して跪(ひざまづ)き、伏すと云う。

三篇  巻之70  〔18〕金森氏宅焼失と左右の者と言論す


 世に久しく謂う、陥話(おとしばなし)と云う如く、真実もまたある。

 近頃のことにて、わしの東近の野宅に、旗下の小普請衆が住んでいたが〔金森氏〕、ある日、晡時(申の刻、午後4時頃)の前に、火を出してその家屋は焼失した。

 わしの左右に侍(はべ)る者達は驚き騒ぎ、種々の言論に及んだ。

 1人曰く。「この頃付け火の災いが所々にあります。甚だしい災難です」。

 また1人曰く。「この度の災いは、自火なれば憂えるに足らずでしょう」。

これを聞いて、わし曰く。「自火付け火と比すれば、尚悪しだ」。

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