三篇  巻之58  〔4〕「ぎつしや」、「すゐてんぐ」、水天宮、二子山を訊ねる

 正月19日、芝の飯倉へ能見物に往って棧敷にて、諸客の話したことが耳底にたまったものを次に記録する。
 
〇大御所公へ、先年牛車の宣下があったと。この牛車は「ぎつしや」とつめて唱える事だと。朝臣東下の武夫某は知らぬ。官に対して奉り恐れ入ることである。
 
〇松岡清左衛門が桟敷へ来たので、わしは、「近来その藩東都の第(やしき)中に、『すゐてんぐ』という神祠が、殊更に発光するが、これは何を祭っておられるか」と問えば、「天御中主を祭ります」と答えた。またわしは「平氏二位尼と世上で云うが、如何(いかん)」と云った。「これは安徳帝と尼と今は附祭しますが、正殿ではありません」と答えた。またわしは「世の水天宮と謂う、然りか」と問うと。「然りでございます」と云う。「これは何の意味か」と問うと、「未だ審らかにしておりません」と答える。また(わしは)「今また世人は水天狗と云うは如何か」と問う。「宮を狗と呼ぶのは、全く俗称です」と云って笑った。わしは「かの水天宮の神印と云うものを、世は崇重して禱(いの)る。印章を視ると、五大力明王の種字だな。すると仏印であろうか」と云った。「このことはわかりません」と答える。すると藩人は還ってこの如し。わしはまた「その本藩、本社の結構は如何かな」と問うた。「当都芝明神宮のほどなりですね。ならば小社ではありませんね」と。「式社か」と問う。「そうです」と云った。〔因みにわしは『神名帳』を閲覧すると、築後国四座。・三井郡三座。・高良玉垂命神社。・名神大。・伊勢天照御祖神社。・豊比咩神社。・名神大。・御原郡一座。小。・御勢大霊石神社〕何の社であろうか。また「定めし当地のように繁昌に群参はないだろうね」と問うと、「そのようにひっそりした地ですね。」と答える。ならばその神位崇めるべし。都下の出張(デバリ)は全く浮華のおこりで、人妖の類だろうか。それに就き云う事は、「この群誦に因っては定めし賽物等多分であろう。如何侯家の益となるのかな」と問うと、「尤もでございます」と答えた。つまりこの賽物を有益の事に当てれば、とかく災禍のことがある。因ってただその普請の費か、また風流のように用いれば、難はない。世に謂う溜めて益とするなら、必ず殃厄に遭うと。すればこれを本社の神威とするのか。仰せはまた如何であろう。

 〇また1人が語る。京師の六波羅蜜寺は、昔平氏蓄昌のとき六波羅の処である。因って今かの蜜寺の裡に浄海入道の墓がある。清盛を葬った所と云う。けれども積年の久しい、素より小さな五輪の塔であるのに、その辺り荊(イバラ)棘が生いしげって、殊に悲嘆すべく思えば、里俗清盛の名を想って、荊棘を刈って、墓兆に石垣を築繞(ツキメグ)らし、墓辺を掃除すれば、その事に寄せる者、みな発熱して大いに苦しんだ。その中病の甚だしい者は狂乱して、「我が墓草の中に埋もれているのは、固より甘んじ楽のように思える。今新たに払浄しようとする俗意はよくないと思う。因ってこう怒ったと云うのを、傍の人みな聴いて甚だ驚き、早速石垣を取り崩すと、衆の病もまたみなもとに復して故(もと)の如しだと。奇異と映るが、どうだろうか。

 〇相の箱根山のつづき二子山と云うのがあるが、世の知る所である。また世に謂うは、魔の所にて人が渉ることを禁じている。棧敷に梅塢いているが、云うには、かの二子山は魔地と謂うこと聞いた所である。某かつて忍んでかの山上に登ると、魑魅の気はなかった。つまりまず箱根の御関所を臨むこと目下にあって、嶮(けわしいの意)要残りなく見える。
 また小田原城もまた目下にて、城内が悉く見える。遥になるが、相府川の番所も同じに臨底とすると、するとここに登って下し瞻(み)れば、御要害の地がみな目下にある。因って若しくは魔所と称して、人が登り臨むを避けたか。

 或はまた魔に逢った者がいたか。某は不異であり、唯眺臨を縦(ホシイママ)にしたことかと。麾(さしまねく意)下の面々は心得があるのだろう。

 

続篇  巻之28  〔26〕吉田侯祖先の記録焼失

 吉田侯〔今松平伊豆守信順。寺社奉行〕の家に、祖先信綱執政の時の御機密の日記が数冊ある。子孫と雖も見ることは協(かな)わない。代々直封にてこの侯家に収めてある。
 
 侯家にも格別大切なものなので、火災を慮り、箱崎の別邸は河辺にて火を遠ざけている処ならばと、これを蔵める小庫を建てて籠めて置いた。がこの3月21日の災に、この庫も火が入ってその旧記は烏有(うゆう、まったく無いこと)となってしまったと。慎むべき甚だしきことになってしまったことよ。
  
   また聞いた。この庫には守吏があったが、火災のとき己の私財を庫中に納めようと   
   て焼失したと云う。これと云っても物は数あって、尽きる期になるとそうなるのだろう。
   
 又聞いた。豆州の家臣某歎息して云うには、この秘冊は家の襲宝といえども、子々孫々がみることも協わなければ、焼失し
て社(こそ)時である。惜しむべき物でもないと。信(まこと)にこのようなことになってしまうか。

 また土浦侯〔土屋氏〕の家にも、かの祖先盛代執政のときの諸記録、都(すべ)て大挙の御用係を勤められた旧記録等があったのを小川町の上邸は火の患はかり難く、土浦の封邑につかわされた。その便が土浦に着いた7日目にかの城内は失火し、来着の古記録悉く消失したと。これもまた天数(天寿)と云えるだろう〔土浦侯の用人富田小右衛門が朝川鼎に語った〕。また『武功雑記』〔天祥公(平戸松浦氏26代当主)の撰〕に載る所は、

一、松平伊豆守殿死去前三日、子息達へ申されたことは、某は大猷院(家光公)幕下の厚恩を蒙る事たとえる物なし。御意安く思し召され、御自筆にて御用の事仰せ下された、侯の御書数多である。これを残し置けば子孫の末々迄も珍宝とも謂うであろう。しかれども思慮をめぐらすと、若し後世に到り他所へ散乱して、御書の趣に是非をつけ難し事もあれば、これは某の残しておくゆえより起きて、誠に大きな不忠、冥加につきる事なので、御書を火中に入れて焼いて灰として、袋に入れて某の死骸の頭にかけて埋めよと遺言であった。これに依り豆州死後、甲州公弟達一所にあってかの御書を薬鑵に入れて火で焼き、各一目も見えぬように、頭を振り敬て灰となし、その灰を袋に入れて、豆州の死骸の頸(くび)にかけさせ葬られた由。

 これは前に記した吉田侯の古冊に中でも、また秘密の物になった。


 

続篇  巻之3  〔13〕揚火を見て歌う

  わしは年々夏秋のころ、佃の海上にて揚火があるので見物に往った。はじめは武術の揚火ならば心得にもと思い往ったが、段々興さめて、今は慰めに烟火戯(はなび)を看る心になり行っている。

  今年も7月10日には、荻野流炮述大御番新庄越州の組源蔵惣領内藤鋭太郎、内藤和州の臣岡村寛十郎と云うのが願を立てた。この岡村はその父を天山の門人岡村千蔵と云って、わしも相知る者ゆえ、この度もその故を引いて、寛十郎はわしの蔵器の唐金鋳筒の大炮を借りた。
 
  また22日は古流の萩野、大御番酒井飛州の与力、桜井代五郎が願を立てた。初日には築地海辺の楼を借りて往って観た。後度には洲崎の海岬茅亭に往って観た。初度は殊更に不出来であったが、後日は初度に勝った。けれどもみな虚伎を免れなかった。唯見物の歓を助けるのみであった。この度も揚火を肴として酒を設けて瞻望する中、わしは片歌を口号した。
   
   風になびく飛火の煙り空に消て
行智傍にありしが、
   ゆくゑは雲にまがふ富士のね
   (これは、佃の向うに大山や富士の根が見えるを、こういったもの)。

夫より酒酣なる頃、
   武蔵野や空に飛火の轟て
   野守ならねど出て見にけり

一坐みな打ち咲(わらい)て興じた。これより傍の者が口占(くちずさむ)俗詞に、
   すざき野やたぼひのお酌ついで見ろ
   (たぼとは婦女の髻の名。世の諺に酒はかん、肴は気どり、酌はたぼと云うに拠る)。 

又傍なる一人つけて曰く。
   今一つたべて若く成らん

人はまた同じく咲(わら)った。 
    

続篇  巻之57  〔14〕婦の身体に毛が生じるはなし

 医師の臣某が話した。
 
 本荘吉岡町の人の妻、年27,8が累年梅毒を患い、治療を某に求めた。某が往って看ると、右脛に腫があった、瘡が生じ痛み甚だしく、治ると再び発し、膿が絶えず出ていた。

  この婦人は両脛に黒い毛が生ずることが続き、男子の脛毛の多き者のようであった。聞くと、婦人は以前娼であったと。淫毒によるものだろうか。婦人は憂えてしばしば剃刀で脛毛を剃ったが、毛はますます濃くなったと。いや、(淫毒とは違う)異なるのではないかと、わしは思うのだが。
 
  『列仙伝』に云う。「毛女は、華陰の山中に在り。山客猟師も、世世に之見るに、形体に毛を生ぜり。自ら言う。始皇の宮人なり。秦亡びて山に入り、松葉を食うに、遂に飢寒せず。身軽うして飛ぶが如しと。『五雑爼』に曰く。李光弼の母は、鬚(ひげ)数十根。宋の徽宗の時酒保有り。婦の朱氏、四十にして鬚を生ず。長きこと、六七寸。『庚巳編』に載す。弘治の末に、応山県の女子鬚を生じ三寸許り。又鄖陽の一婦美色あり。鬚を生ること三繚(長いものがまつわるさま)。約するに数十茎。而它(へび)の異無し」。
 
 毛女は、娼ではなく宮人である。而全身毛を生じていた。その次は、みな上部の毛である。すると下部もあるだろう。

 何方(イズカタ)も他異の無いことが幸い。

続篇  巻之67  〔16〕わが臣の内野氏に伝わる盃のはなし

 わしの中の内野平助〔養子で、実家は城氏〕は、大目付としてこの夏出府した。この度勧進能にわしは往くので、渠(かれ)を誘って共に見物した。

 棧敷にて酒杯献酬の際、平助は「臣の祖城氏は、法印公(松浦家26代鎮信公)が朝鮮に渡られたとき、先手を命じられました。弓炮の兵卒を随えていましたが、ある合戦にて討ち死にしました。それでその子源左衛門年17、次いで家卒を率い渡海すれば、法印公直に父の兵卒を授けられ、また先手を命じられました。家伝の説に、朝鮮の戦場にて人衆を立て竪(かた)めているとき、御使番が騎馬に乗って、今は敵に合い何町に及んでいると告げてくること櫛歯の如く(絶え間なく続くさま)でありました。つまり程なく先手矢合わせに到るので、使番はまたこのことを告げました。みな人覚えず武者震いして、膝甲〔シツコウ、居敷(オリシキ)膝を竪臂(タテヒジ)をつき、鎗ぶすまを為すこと。また膝甲りは、鋭身にして甲膝に臨むためである〕をして構えていました。甲の錣胴に触れてがらがらと音が鳴って、甚だみぐるしく、このとき酒を呑む者は皆みな少しも慄(フル)わず、膝甲のまま進み出て進み出て、各々一番槍を心がけた。武夫は酒の勢いを頼みに勇進ではないけれども、男子には必ず酒を飲ますべきとて、子孫には示すための盃1つを胎(ノコ)しました。その盃は今に伝わります」と言った。

 すると臣も酒は辞さずと、数盃を傾けた。

 帰宅して盃の図を上げた。曰く「図のように失漆にて猩々(ショウジョウ。オランウータン、または想像上の動物)2つを蒔絵して、1つは酒盃を持つ。

 聞いても勇壮な談であった。
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